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修身の教科書より:永田佐吉と恩人

永田佐吉は11歳のとき、田舎から出てきて、名古屋のある紙屋に奉公しました。

佐吉は正直者で、よく働く上に、ひまがあると、習字をしたり、本を読んだりして楽しんでいました。
そのため、主人にたいそう、かわいがられました。

しかし、仲間の者たちは佐吉をねたんで、店をやめさせるように、幾度も主人に願い出ました。

主人は仕方なく、佐吉を雇うをのやめました。

佐吉は家に帰ってから、綿の仲買などをして暮らしていましたが、主人を恨むようなことは少しもなく、いつも、世話になった恩を忘れませんでした。

そして買い出しに出た道のついでなどには、必ず紙屋に行って、主人のご機嫌を伺いました。

その後、紙屋は、とても衰退して、見るのも気の毒なありさまになりました。
長い間、世話になっていた奉公人も、誰一人、出入りしなくなりました。

しかし佐吉だけは、ときどき見舞いに行き、いろいろな物を贈って主人をなぐさめ、その暮らしを助けました。

 

 

永田佐吉は江戸中期の豪商です。人徳者で、仏佐吉とも呼ばれました。
現在も、岐阜県羽島市にある佐吉大仏は、彼により建てられたものです。

 

 

尋常小学校修身書 昭和11年

戦前の教科書より:礼儀の作法とは

私たちが世間の人と共に生活する上では、知っている人にも、知らない人にも、礼儀を守ることが大切です。

礼儀を守らないと、人に不快な思いをさせ、また自分の品位を落すことにもなります。

人の前に出る時には、頭髪や手足を清潔にし、着物の着方にも気をつけて、身なりをととのえなければ失礼です。

人の前であくびをしたり、目くばせをしたり、内緒話をしたりするような不行儀なことをしてはなりません。

人と食事をする時には、音を立てたり、食器を乱雑にしたりしないで、行儀よく、ゆかいな気分で食べるようにしなければなりません。

部屋に出入りするときの、戸やしょうじの開け締めは、静かにするものです。

電車などの乗り物に乗った時には、たがいに気をつけて、人に迷惑をかけないようにすることが必要です。自分だけ席を広くとったり、行儀の悪い格好をしたり、いやしい言葉使いをしたりしてはなりません。

集会所・停車場、その他、人が混み合って順番を守らなければならない場所で、人を押しのけて、我先にと行ってはなりません。

また人の顔かたちや、なりふりを笑い、悪口を言うのはよくないことです。

人にあてた手紙を、許可なく開いて見たり、人が手紙を書いているのをのぞいたりしてはなりません。

そのほか、人の話を立聞きするのも、人の家をのぞき見するのもよくないことです。

親しくなると、何事もぞんざいになりやすいものですが、親しい中でも礼儀を守らねば、仲よく交際することはできません。

戦前の教科書より:「我が家のおきて」

わたしのうちは、8人家族です。

一番、年齢が高いのは、おじいさんです。昨年、六十一歳のお祝いがありました。

一番、年が小さいのは、去年の春生まれた妹です。四、五日前から、やっと二足三足ずつ歩けるようになりました。

一番やせているのはおばあさんで、一番せいの高いのはおとうさん、一番むじゃきでよく人を笑わせるのは、今年五つになる弟です。

おかあさんは毎朝暗いうちから起きて働きます。
その外の者も、みな日の出ないうちに起きます。私の次の弟は、家中で寝坊してましたが、学校へ行くようになってからは、早く起きるようになりました。

夕方には家中、一緒にご飯を食べて、それから、いろいろ面白い話をします。
一日の中で、この時ほど楽しいことはありません。

私のうちは数代前の先祖が、心をこめてつくったものです。

その頃先祖自身が
「つつましさは家の内を治める上策たり。和平は処世の良道なり。」
と書かれたものが、今も残って、私の家のおきてになって
います。

先祖が残したものには、家や、田畑や、その外いろ
いろの品物がありますが、一番貴いのはこのおきてです。

私のうちでは、代々このおきてを守って、家を治めたり、世間のつきあいをしたりしてきました。

おとうさんも、
「この家風にそむかないように。」
と言って、いつも私どもをいましめます。

日本語読本 布哇教育会第2期 より

修身の教科書より:一分で読める 馬をいたわる話

昔、木曽の山の中に、孫兵衛という馬方がありました。

ある時、一人の僧が、その馬に乗りました。

道のわるい所に入ると、そのたびに、孫兵衛は、馬の荷に肩を入れて、
「おっと、親方、あぶない、あぶない。」
といって、馬をたすけてやりました。

僧はふしぎに思って、そのわけを尋ねました。
すると孫兵衛は、
「私ども親子四人は、この馬のおかげで暮らしておりますから、
馬とは思わず、親方と思って、いたわるのでございます。」
と答えました。

約束した所へついたので、僧は代金を払いました。

孫兵衛は、まず、そのお金で餅を買って、馬に食べさせました。
そして、家の前に行くと、孫兵衛の妻と子が、馬のいななきを聞きつけて、むかえに出て来て、さっそく馬にまぐさをやりました。

僧は、それを見て、孫兵衛の家中が、みんな心がけがよいのに、たいそう感心しました。

尋常小学校修身 昭和11年より

修身の教科書より:松平好房の行儀

松平好房(まつだいら よしふさ)は小さい時から行儀の良い人で、自分の居間にいる時でも、父や母がおられる方に足を伸ばしたことは、決してありませんでした。

よそに行くときには、そのことを父母に告げて、帰って来た時には、きっと父母の前へ出て
「ただ今かえりました。」
といって、あいさつをし、それから、その日にあったことを話しました。

好房は、父母からものをもらう時は、ていねいにお辞儀をして、それを受け、いつまでもたいせつに持っていました。

また、遠くへ出られた父母から手紙をもらった時は、まず、いただいてから開き、読み終わると、また、頂いて、それをしまいました。

父母が何かおっしゃる時には、好房は、行儀よくきいて、おっしゃることにそむかないようにし、また人が好房の父母の話をする時でも、すわりなおして聞きました。

好房は、このように、父母をうやまって、行儀がよかったばかりでなく、親類の人にも、お客にも、いつも行儀よくしましたので、好房をほめない者はありませんでした。


松平好房
島原藩の主、松平忠房の長男。21歳で早世したが孝行で知られている。

一分で読める本居宣長の人柄:修身の教科書より

本居宣長は、日本の昔の本を読んで、日本がとても立派な国であることを人々に知らせた、名高い学者です。

宣長は、たくさんの本を持っていました。そして、ひとつひとつ、本棚に入れて、よく整頓していました。

そのため、夜、明かりをつけなくても、思うように、どの本でも、取り出すことができました。

宣長はいつも家の人に、

「どんな物でも、それを探すときのことを思えば、しまう時に気をつけなければならない。入れる時に少しの面倒はあっても、いるときに早く出せる方がよい」

と、言ってきかせました。

宣長が名高い学者になり、立派な仕事を残したのは、普段からものをよく整頓しておいたことが、どれだけ役に立ったかしれません。

明治時代の教科書より:北海道開拓時代のはなし

ある日、北海道のある村の子どもが4,5人、つれだって、その友達の家をたずねた。
そのとき、その友だちのおじいさんは次のような話をして聞かせた。

「私は今から34~5年前に本州から、ここに移住して来ました。
皆さんのお父さん、お母さん、おじいさんや、おばあさんなどと一緒に、ここに移住してきました。

そのころには、今、札幌というところにある、北海道庁という役所は、まだありませんでした。
そして土地は一体に、たいそう荒れていました。木は生い茂っていて、歩くこともできませんでした。また、道もなく、家もなくて、たいそう、さびしい所でした。

けれども、私どもは、小さい家を作って、住まいました。
そして雪の降るのもかまわず、木を切り、日の照りつけるのも構わず、
土地を開きました。

こうして、毎日、農業を勉めましたから、今は、このような、立派な家に住まって、安楽に暮らしていくことができるようになりました。

北海道には、まだ、奥に、たくさん、開くべき所があります。
これを開くものは、誰でも、私たちのように、安楽に暮らしていくことが、できるようになります。また、土地を開くほかに、魚を捕ったり、石炭を掘ったり、馬や牛を飼ったりするような仕事もありますから、本州などで貧しく、暮らしている人は、早く、ここに、移住すればよいのです。

本州などの人は『北海道は、たいそう雪のふる、寒い所だ。』といって、恐れている人もいますが、(子どもの)みなさんにさえ、こうやって、いられる所ではありませんか。

また、千島の方にある占守島という所にさえ、行っている人もいるではありませんか。」

子どもは、この話をきいて、「もっともだ。」と思った。
そして、また、「今のように安楽に暮らしていくことができるのは、
この老人や、うちの人たちの苦労してくれたおかげだ。」と思った。

尋常小学校読本 明治37年

明治時代の教科書より:実用知識「焼物と塗物」

機械工業と違って、人の手を用いる工業は昔から日本ではとても進んでいました。
特に焼物、塗物はその名が外国にまで聞こえていました。

茶碗、土瓶、皿などの多くは焼物で、膳、椀重、箱、盆などは多くが塗物です。

焼物をつくる

焼物をつくるときは、土または石を砕き、粉にして練り固め、または”ろくろ”にかけたり、
手でひねったりして、思うままの形につくります。
そして日陰で乾かし、竈に入れて焼きます。
これを素焼きといいます。茶碗、土瓶、皿などは、この素焼きにさまざまの模様を描いてうわぐすりをかけて
ふたたび焼いたものなのです。

塗物をつくる

また塗物は、多くは木を組み、または繰った上に漆をぬって作ります。
漆は木の皮に傷をつけ、流れ出てくる汁を取って作ったものです。塗物の中には蒔絵をしているものもあります。蒔絵とは漆を塗った上に金粉、銀粉などでさまざまな模様を
描いたものです。
 

尋常小学校読本 明治37年

明治時代の教科書より:実用知識「染料」

青色の染料の原料

染料には種々ありまして青色には多くの場合、藍を用います。藍は温暖で多湿の土地によくできる植物です。徳島県でよくとれます。

また山靛(やまあき)というものがあり、多くは九州の南方にできます。これで染めたものは
たびたび洗濯しても色がおちません。

山靛

薩摩綛(さつまがすり)、琉球上布などはこれで染めたものです。

赤色の染料の原料

赤色には紅、茜などを用います。

 

黄色の染料の原料

黄色にはウコン、クチナシ、刈安(かりやす)を使います。

黒色の染料の原料

黒色には檳榔子(びんやし)、五倍子(ごばいし)、鉄漿などを用います。

 

刈安

イネ科の植物。延喜式にものっている黄色染料です。

檳榔子(びんやし)の木

五倍子(ごばいし)

ヌルデという植物の葉をヌルデシロアブラムシという虫が傷つけることにより「虫こぶ」という袋状のものを作ることがあります。この袋状の物体の成分をインキ,染料の製造原料にすることができます。

染料の配合

このほか、萌黄色を染めるには黄と青、紫色を染めるには赤と青を交えます。
このように配合していろいろの染料を作るのです。

石炭ガスをつくるときにアニリンというものがとれます。このアニリンから
紫色の染料を得ることができます。これに媒染剤を加えるとさまざまの色ができます。
科学の進歩につれてさまざまな染料が発明されました。

 

鉄漿とは?

お歯黒(はぐろ)のこと。鉄屑(てつくず)を焼いたものを濃い茶の中に入れ、これに五倍子(ふし)の粉を加えてその液で歯を染める。

 

高等小学校国語 明治34年

明治時代の教科書より:「おふみの慈善」

ある日、新聞が「かわいそうな親子」という題で以下の記事を出しました。

「松葉町十二番地に小林兵吉という子どもがいます。
兵吉の父親は大工でしたが、兵吉が五歳のときに、ある家の修繕中に大怪我をして死にました。
母親はとてもとまどいましたが、仕方ないので、
毎日、昼は野菜を売り、夜は和裁の仕事を引き受けたりしてして
苦しい中、生活を続けました。

しかし、子どもには人並みの学問をつけさせたいと思い、兵吉が七歳のときに松葉尋常小学校に入れました。

食費すら苦しい中、兵吉の授業料を出すのは、とても大変なことでした。

兵吉は子ども心に母の苦労を思って、学校ではよく先生の教えに従い、家ではよく母の手伝いをしました。

このように三年間を過ごして、兵吉は4年生になりました。
しかし母は苦労がつのった結果、病気にかかってしまいました。

兵吉はとても落ち込みました。学校に行くのをやめて、朝は牛乳を配達し、昼は野菜を売り歩いて、そのお金で母のための薬を買い、夜は母のそばで介抱しました。

母は我が子のかわいそうな様子を見ては泣き
「さぞかし学校に行きたいだろう」と思っては泣きました。

母の病気はいよいよ重くなりました。
兵吉はさらに心配して外へ出ることもやめました、
兵吉はこれからどのようにしてお金を得たらよいのでしょう?
どのようにして薬を買うのでしょう?
かわいそうなのは、この親子の身の上です。」

おふみは、この夜、母からこれを読み聞かせられて、とてもかわいそうに思いました。
そして、日頃からためていたお金を、六十銭ばかり兵吉にあげようと相談しました。
母はおふみの慈善の心にとても感動して、
「私も着物をあげましょう。」
と言いました。

あくる日、二人は兵吉の家をたずねて、おふみは銭を、母は着物をわたしました。
兵吉はとても喜んで、なんども手をついて礼をいいました。
兵吉の母親も、床の中から何度も手を合わせておがみました。

尋常小学校読本 明治37年

1分で読める明治時代の教科書:川嶋又兵衛

近江(滋賀県)の商人は商売上手な上に辛抱強いです。
どんな苦労もがまんして、たゆまず遠い場所をまわって商売する人が多いです、
そのため、昔から商人の手本は近江商人といわれています。

昔、川嶋又兵衛という近江の商人がいました。
ある年、商売のために江戸から信州(長野県)にむかうとき、有名な峠にさしかかりました。

お供の者と、重荷を背負って登りましたが、坂道はけわしく、夏の暑さもあり、大変苦労しました。

二人はしばらく木のかげでやすみました。

お供の人は汗をぬぐうと
「商人になってこんなに苦しむぐらいなら、百姓になるほうがましだろう」
となげきました。

これを聞いた又兵衛は、いいました。

「わずかこのくらいの山ひとつでさえ、商人をやめようと思う人がいる。
もし同じような山が5つも6つもあったなら、それを越えて行く商人は、一人もいないだろう。
そうなれば、自分ひとりで行って儲けられるのに。山が一つだけしかないのは残念だ」

これを聞いたお供の人ははげまされて、一緒に山を越えて信州に入りました。

辛抱強い又兵衛は後に大商人になり、鬼又兵衛とよばれるようになりました。

修身の教科書:1分で読める上杉鷹山

上杉鷹山(うえすぎ ようざん)は米沢のお殿様でした。地元を栄えさせ、人々の幸せを願った人でした。
鷹山は14歳のときから江戸で細井平洲という学者の下で学問をしました。

後に平洲が江戸から米沢に招かれたことがあります。
このとき平洲はもう70歳近い年寄りでした。
鷹山は平洲が長旅で疲れないよう、いろいろ気をつかいました。

平洲が米沢の近くにくると、鷹山はわざわざ町はずれまで迎えに出ました。そしてある寺の門の前で平洲を待ち受けました。
そのうちに平洲の乗った籠がつきました。
鷹山は「先生、ごきげんよろしうございます。」と丁寧に挨拶をすると、あとは言葉もなく、ただなつかしさに涙ぐむばかりでした。

それから休んでもらうために平洲を寺に案内しましたが、門を入って長い坂をのぼるのに、鷹山は平洲より一足も先に出ず、また平洲がつまづかないよう気をつけて歩きました。

寺につくと、座敷にとおして
「先生、さぞおつかれでございましたでしょう。」
といってなぐさめ、心をこめてもてなしました。

※上杉鷹山(上杉治憲):米沢藩9代目当主