明治時代の教科書

明治時代の教科書:1分で読む伊藤小左衛門と茶畑

伊藤小左衛門は三重県の人です。代々、農業をしている家の生まれでした。 小左衛門は若い時から産業を起こしたいという志がありました。 外国貿易が始まった頃、製茶業を始めようと思い立ち、山地を開拓してお茶の木を植えました。 他の人にも勧めましたが、人々はそれに従わず、あざけり笑う人もいました。 小左衛門は気にしないで、茶畑を広め、5年後には二十貫目の茶を収穫しました。 のちに横浜港が開港したとき、十数万片のお茶を外国人に売り、二千六百両の利益を得ました。 以前、あざけり笑った者たちも、これを見て感心し、争うように製茶業をはじめました。 そして製茶業は国中に広まり、大変な産出量になりました。
伊藤小左衛門とは?
三重県四日市市の企業家。幕末期から明治初期にかけて四日市地域に近代産業を浸透させ、貿易を重視して産業の近代化を推進した。
高等小学校国語読本 明治34年

1分で読める明治時代の教科書:「家訓をまもれ」

私の家には、父と母と祖父母がいて、いつも私たちを愛してくれます。 私は、いつも妹と一緒に学校に行き、家に帰った後は復習するようにしています。 弟はまだ学校に通ってませんが、私のそばに来て、読み書きの真似をして、遊んでいます。 我の家は、先祖ががんばって建てた家です。 居間の長押(なげし)には、「勤倹」という字が記された額が、かかっています。 「勤にあらざれば、財を得難く、倹にあらざれば、家を保ちがたし」 という意味です。 そのため、私たちはこの貴い家訓を守って、ますます家を栄えさせることを、心がけなくてはいけません。 もし、この家訓を破るときは、先祖に対して非常に不孝をしたというべきです。 高等小学校国語読本 明治34年

明治時代の教科書より:北海道開拓時代のはなし

ある日、北海道のある村の子どもが4,5人、つれだって、その友達の家をたずねた。 そのとき、その友だちのおじいさんは次のような話をして聞かせた。 「私は今から34~5年前に本州から、ここに移住して来ました。 皆さんのお父さん、お母さん、おじいさんや、おばあさんなどと一緒に、ここに移住してきました。 そのころには、今、札幌というところにある、北海道庁という役所は、まだありませんでした。 そして土地は一体に、たいそう荒れていました。木は生い茂っていて、歩くこともできませんでした。また、道もなく、家もなくて、たいそう、さびしい所でした。 けれども、私どもは、小さい家を作って、住まいました。 そして雪の降るのもかまわず、木を切り、日の照りつけるのも構わず、 土地を開きました。 こうして、毎日、農業を勉めましたから、今は、このような、立派な家に住まって、安楽に暮らしていくことができるようになりました。 北海道には、まだ、奥に、たくさん、開くべき所があります。 これを開くものは、誰でも、私たちのように、安楽に暮らしていくことが、できるようになります。また、土地を開くほかに、魚を捕ったり、石炭を掘ったり、馬や牛を飼ったりするような仕事もありますから、本州などで貧しく、暮らしている人は、早く、ここに、移住すればよいのです。 本州などの人は『北海道は、たいそう雪のふる、寒い所だ。』といって、恐れている人もいますが、(子どもの)みなさんにさえ、こうやって、いられる所ではありませんか。 また、千島の方にある占守島という所にさえ、行っている人もいるではありませんか。」 子どもは、この話をきいて、「もっともだ。」と思った。 そして、また、「今のように安楽に暮らしていくことができるのは、 この老人や、うちの人たちの苦労してくれたおかげだ。」と思った。 尋常小学校読本 明治37年

明治時代の教科書より:実用知識「焼物と塗物」

機械工業と違って、人の手を用いる工業は昔から日本ではとても進んでいました。 特に焼物、塗物はその名が外国にまで聞こえていました。 茶碗、土瓶、皿などの多くは焼物で、膳、椀重、箱、盆などは多くが塗物です。

焼物をつくる

焼物をつくるときは、土または石を砕き、粉にして練り固め、または”ろくろ”にかけたり、 手でひねったりして、思うままの形につくります。 そして日陰で乾かし、竈に入れて焼きます。 これを素焼きといいます。茶碗、土瓶、皿などは、この素焼きにさまざまの模様を描いてうわぐすりをかけて ふたたび焼いたものなのです。

塗物をつくる

また塗物は、多くは木を組み、または繰った上に漆をぬって作ります。 漆は木の皮に傷をつけ、流れ出てくる汁を取って作ったものです。塗物の中には蒔絵をしているものもあります。蒔絵とは漆を塗った上に金粉、銀粉などでさまざまな模様を 描いたものです。   尋常小学校読本 明治37年

明治時代の教科書より:「おふみの慈善」

ある日、新聞が「かわいそうな親子」という題で以下の記事を出しました。 「松葉町十二番地に小林兵吉という子どもがいます。 兵吉の父親は大工でしたが、兵吉が五歳のときに、ある家の修繕中に大怪我をして死にました。 母親はとてもとまどいましたが、仕方ないので、 毎日、昼は野菜を売り、夜は和裁の仕事を引き受けたりしてして 苦しい中、生活を続けました。 しかし、子どもには人並みの学問をつけさせたいと思い、兵吉が七歳のときに松葉尋常小学校に入れました。 食費すら苦しい中、兵吉の授業料を出すのは、とても大変なことでした。 兵吉は子ども心に母の苦労を思って、学校ではよく先生の教えに従い、家ではよく母の手伝いをしました。 このように三年間を過ごして、兵吉は4年生になりました。 しかし母は苦労がつのった結果、病気にかかってしまいました。 兵吉はとても落ち込みました。学校に行くのをやめて、朝は牛乳を配達し、昼は野菜を売り歩いて、そのお金で母のための薬を買い、夜は母のそばで介抱しました。 母は我が子のかわいそうな様子を見ては泣き 「さぞかし学校に行きたいだろう」と思っては泣きました。 母の病気はいよいよ重くなりました。 兵吉はさらに心配して外へ出ることもやめました、 兵吉はこれからどのようにしてお金を得たらよいのでしょう? どのようにして薬を買うのでしょう? かわいそうなのは、この親子の身の上です。」 おふみは、この夜、母からこれを読み聞かせられて、とてもかわいそうに思いました。 そして、日頃からためていたお金を、六十銭ばかり兵吉にあげようと相談しました。 母はおふみの慈善の心にとても感動して、 「私も着物をあげましょう。」 と言いました。 あくる日、二人は兵吉の家をたずねて、おふみは銭を、母は着物をわたしました。 兵吉はとても喜んで、なんども手をついて礼をいいました。 兵吉の母親も、床の中から何度も手を合わせておがみました。 尋常小学校読本 明治37年

1分で読める明治時代の教科書:川嶋又兵衛

近江(滋賀県)の商人は商売上手な上に辛抱強いです。 どんな苦労もがまんして、たゆまず遠い場所をまわって商売する人が多いです、 そのため、昔から商人の手本は近江商人といわれています。 昔、川嶋又兵衛という近江の商人がいました。 ある年、商売のために江戸から信州(長野県)にむかうとき、有名な峠にさしかかりました。 お供の者と、重荷を背負って登りましたが、坂道はけわしく、夏の暑さもあり、大変苦労しました。 二人はしばらく木のかげでやすみました。 お供の人は汗をぬぐうと 「商人になってこんなに苦しむぐらいなら、百姓になるほうがましだろう」 となげきました。 これを聞いた又兵衛は、いいました。 「わずかこのくらいの山ひとつでさえ、商人をやめようと思う人がいる。 もし同じような山が5つも6つもあったなら、それを越えて行く商人は、一人もいないだろう。 そうなれば、自分ひとりで行って儲けられるのに。山が一つだけしかないのは残念だ」 これを聞いたお供の人ははげまされて、一緒に山を越えて信州に入りました。 辛抱強い又兵衛は後に大商人になり、鬼又兵衛とよばれるようになりました。

明治時代の教科書より:「紙で作ったかえるが動いた」

子どもたちがたくさん集まっていました。 その中の一人が、紙を折って作ったかえるを出して 「これは生きている!」 と手をはなしました。 するとふしぎなことに、紙のかえるはそろそろと動きはじめました。 みな、ふしぎに思ってみていました。 やがて一人がかえるに息を吹きかけてみると、かえるはひっくりかえって、こがね虫があらわれました。 「ああ、これがタネだ」 と、みんなが手を打ってわらいました。 次の日、またべつの子がいいました。 「おもしろいものを作ったから、みんな見にきて」 みると、うつわにはった水の上を、木でつくった鳥があちこち泳いでいました。 「これはおもしろい。どうやったの?」 ときくと、昨日のかえるを見てから、いろいろ工夫して、木で鳥を作って、それを糸で魚のフナの尾にむすびつけたのだ、と言いました。 小学国語読本より

1分で読む明治時代の教科書:井上でん はどんな人?

九州の久留米に、井上でんという女の人がいました。 子どもの頃から、ぬい物やはたおりなどの手芸が好きでした。 でんが12、3才のときのことです。 いろいろ工夫して、白いはた糸をところどころ糸でかたく結んでから、あい(藍)でそめて、干してみると、その結んだところが白いままになっていることに気づきました。 この糸で、布を織ってみると、白いまだらが現れました。 でんは、とてもよろこびました。 布のもようはとても珍しく、「しも降り」「あられ織」などと呼ばれ、たくさんの人が欲しがりました。 これが「久留米がすり」の始まりです。 でんは元気づいて、さらに工夫をかさね、多くの織物を作りました。 たくさんの弟子もついて、でんの織物は町の特産品になりました。 どんなことでも深く心をこめて考えれば、よい工夫が浮かぶものです。