加藤景正(かとう かげまさ)

加藤景正は鎌倉時代の人です、藤四郎とも呼ばれました。 子供の頃から土で物を造ることが好きでした。 そして成長して陶器の焼き方を学びました。 その頃、中国は陶器づくりの技術が進んでいました。 加藤景正はこれを学ぼうと、道元和尚とともに中国に渡りました。 そして、6年間修行して、技術をきわめました。 27歳のとき日本に戻り、熊本の川尻に住みました。 そして持ち帰った土で3つの壺を焼いて、執権だった北条時頼と、道元和尚とに贈りました。 それから京都の山城に入り、近畿地方を広くめぐって、陶土を探しました。 しかし、心にかなうものがなかったので、失望しました。 それから尾張の国(愛知県)に入り、ようやく持ち帰った土と同じぐらい良い土を見つけました。景正はとても喜んで、すぐに窯を開きました。 その土地は東春日井郡の瀬戸村でした。世間で陶器を瀬戸物というのは、この瀬戸という土地の名前によるものなのです。 景正の子孫が代々、仕事を継いだので、明治時代になっても、瀬戸村には加藤という姓を持つ人がたくさんいました。 明治の終わり、瀬戸村には700戸あまりの世帯があり、みな同じ仕事をしていました。窯を持ち窯元をしている家は150あまりありました。 明治34年 高等小学校読本から

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