小学校高学年以上

1分で読む明治時代の教科書:井上でん はどんな人?

九州の久留米に、井上でんという女の人がいました。 子どもの頃から、ぬい物やはたおりなどの手芸が好きでした。 でんが12、3才のときのことです。 いろいろ工夫して、白いはた糸をところどころ糸でかたく結んでから、あい(藍)でそめて、干してみると、その結んだところが白いままになっていることに気づきました。 この糸で、布を織ってみると、白いまだらが現れました。 でんは、とてもよろこびました。 布のもようはとても珍しく、「しも降り」「あられ織」などと呼ばれ、たくさんの人が欲しがりました。 これが「久留米がすり」の始まりです。 でんは元気づいて、さらに工夫をかさね、多くの織物を作りました。 たくさんの弟子もついて、でんの織物は町の特産品になりました。 どんなことでも深く心をこめて考えれば、よい工夫が浮かぶものです。  

加藤景正(かとう かげまさ)

加藤景正は鎌倉時代の人です、藤四郎とも呼ばれました。 子供の頃から土で物を造ることが好きでした。 そして成長して陶器の焼き方を学びました。 その頃、中国は陶器づくりの技術が進んでいました。 加藤景正はこれを学ぼうと、道元和尚とともに中国に渡りました。 そして、6年間修行して、技術をきわめました。 27歳のとき日本に戻り、熊本の川尻に住みました。 そして持ち帰った土で3つの壺を焼いて、執権だった北条時頼と、道元和尚とに贈りました。 それから京都の山城に入り、近畿地方を広くめぐって、陶土を探しました。 しかし、心にかなうものがなかったので、失望しました。 それから尾張の国(愛知県)に入り、ようやく持ち帰った土と同じぐらい良い土を見つけました。景正はとても喜んで、すぐに窯を開きました。 その土地は東春日井郡の瀬戸村でした。世間で陶器を瀬戸物というのは、この瀬戸という土地の名前によるものなのです。 景正の子孫が代々、仕事を継いだので、明治時代になっても、瀬戸村には加藤という姓を持つ人がたくさんいました。 明治の終わり、瀬戸村には700戸あまりの世帯があり、みな同じ仕事をしていました。窯を持ち窯元をしている家は150あまりありました。 明治34年 高等小学校読本から

古橋輝兒(ふるはし てるのり)

古橋輝兒(てるのり)は愛知県の人でした。 子供の頃、家が貧しくなってきたので、これを挽回しようと、日夜つとめました。 輝兒(てるのり)は大人になると、山林業を始めようと思いました。 そこで、貧しい中、自らお金を出して、杉、ひのきなどの苗を買いました。 そして、これらの苗を、すべての村人の間で分けあって栽培しようと思いました。 村の人々はいやがりました。苗を焼きはらおうとする人もいました。 しかし輝兒(てるのり)は誠意をもって、丁寧に栽培するよう勧めました。 そして数万本の大木が村の共有地に生い立つようになり、 輝兒(てるのり)の徳を仰がぬものはいなくなりました。 また輝兒(てるのり)は、県庁で働いていたときに得たお金で、 茶の実や桑の苗を買って村人に与えました。 貧しい者には栽培するための費用を与えました。 結果、数年後には、この地方で製茶や養蚕が盛んになりました。 輝兒(てるのり)は、農談会をして耕作をすすめ、学校を興して師弟を教え、 財を出して貧者に恵みを行うなど、善行がとても多い人でした。 常に倹約し、自分のために使うことは少なく、公益のためには少しも惜しむことなく、 何事も自ら先んじて人を導くので、感化させられない人はいませんでした。 輝兒(てるのり)は、父親が病気になったときは寝食を忘れて看護し、氏神に全快を祈りました。 父の病が癒えると、毎夕、氏神の社に燈火を献じて感謝しました。 高等小学国語読本(明治34年)より