日本の偉人たち

明治時代の教科書:1分で読む伊藤小左衛門 後編

前編あらすじ:三重県の農家 伊藤小左衛門は茶畑を作り、開港したばかりの横浜港でお茶を売り、製茶業を成功させました。 (「明治時代の教科書:1分で読む伊藤小左衛門 前編」)
製茶で成功した伊藤小左衛門は、養蚕が利益を出すと知り、まず桑2百株を手に入れました。 そして長い年月、苦労を重ねた末、ついに製糸機械を設置して、多くの生糸を造りだしました。 しかし品質がよくなく、大きな損失を出してしまいました。 小左衛門は自ら、上野の富岡製糸場で修行をし、帰ったあと、五十二貫目の糸を製造して、横浜に送りました。 しかし、また損失をこうむることになりました。 小左衛門は少しもあきらめず、明治9年には妻と娘を富岡製糸場に送って修行をさせました。 また機械を変え、職工を増やし、それから二百十貫目の糸を製造して、横浜に送りました。 このとき、ようやく富岡製にも劣らない品質だと評価され、高値がつきました。 伊藤小左衛門はますます励んで製糸、製茶業を盛んにし、その志をかなえました。 高等小学校国語読本 明治34年

修身の教科書より:鈴木今右衛門の慈善

昔、山形県の鶴岡に、鈴木今右衛門という情け深い人がいました。 大きな飢饉のあったとき、自分の家のお金や米、麦などを出して、飢えている人たちを助けました。 それでも、まだ餓死する人がいるので、田や畑はもちろん家の道具まで売って、たくさんの人を救いました。 今右衛門の妻も、持っていた着物などの大部分を売って、人々を助けました。しかし晴れ着がまだ二枚だけ残っていました。 今右衛門が 「外に出るのに、着替えの一つぐらいはあったほうがいいだろう。 それだけは残しておいたらどうか?」 と言いますと、妻は、こういいました。 「着替えがあると、外にも出るようになります。 着替えがなくなって、外に出ることができなくなれば、櫛やかんざしもいりません。 残らず売って、もっとたくさんの人を助けましょう。」 そして、晴れ着と一緒に櫛やかんざしも売ってしまいました。 今右衛門夫婦の間には十二歳になる娘がいました。 ある寒い日、同じ年頃の女の子が物乞いに来ました。 母親はそれを見て、娘にこういいました。 「お前は綿入りの服を二枚重ねて暖かくしているけれども、あの子は綿の入ってない服一枚だけで、ふるえています。一枚あげてはどうですか?」 娘はすぐに、上に着ている、良い方の上着をぬいで、その子に渡してやりました。
鈴木今右衛門とは?
鶴岡藩の藩士。隠居後は農業に従事します。 奥羽大飢饉の時、私財をなげうって慈善を行いました。 鶴岡市の出羽三山神社には崇峻天皇の皇子(蜂子皇子)の墓があり、東北唯一の皇族の墓として、今も宮内庁に管理されています。

修身の教科書:1分で読める上杉鷹山

上杉鷹山(うえすぎ ようざん)は米沢のお殿様でした。地元を栄えさせ、人々の幸せを願った人でした。 鷹山は14歳のときから江戸で細井平洲という学者の下で学問をしました。 後に平洲が江戸から米沢に招かれたことがあります。 このとき平洲はもう70歳近い年寄りでした。 鷹山は平洲が長旅で疲れないよう、いろいろ気をつかいました。 平洲が米沢の近くにくると、鷹山はわざわざ町はずれまで迎えに出ました。そしてある寺の門の前で平洲を待ち受けました。 そのうちに平洲の乗った籠がつきました。 鷹山は「先生、ごきげんよろしうございます。」と丁寧に挨拶をすると、あとは言葉もなく、ただなつかしさに涙ぐむばかりでした。 それから休んでもらうために平洲を寺に案内しましたが、門を入って長い坂をのぼるのに、鷹山は平洲より一足も先に出ず、また平洲がつまづかないよう気をつけて歩きました。 寺につくと、座敷にとおして 「先生、さぞおつかれでございましたでしょう。」 といってなぐさめ、心をこめてもてなしました。 ※上杉鷹山(上杉治憲):米沢藩9代目当主

本居宣長を一分で読む!:明治時代の教科書

山桜が咲き誇っている中に、赤い細い葉がまばらに混じっている様は、くらべるものがないぐらい美しい。 葉が青くなってしまって花がまばらになってしまうと、だいぶ劣ってしまう。 山桜といわれるものも様々だ。細かく見れば、木ごとに変わったところがあって、全く同じ木はない。 また、八重、一重などといった種類も様がわりして、とても美しい。 曇った日に見上げて見る花は色鮮やかに見えない。 松などが青く繁ったかなたに咲く花は、色が殊のほか映えてみえる。 空がよく晴れた日、日影のさす方から見る花の美しさにならぶものはない。同じ花と思えないほどだ。 国語読本 巻3 明治34年

尋常小学校の教科書より:小野道風(おのの とうふう)

昔、小野道風(おのの とうふう)という人がいました。 若いときに字を習いましたがうまく書けず困っていました。 あるとき、雨の降る日に道風が庭に出て池の傍を通りますと、しだれ柳の枝へ、かえるが飛びつこうとしています。 かえるは柳のつゆを虫とでも思ったのでしょう、飛んでは落ち、飛んでは落ち、何べんも、何べんも、飛びつこうとします。 だんだん高く飛べるようになって、とうとう柳に飛びつきました。 道風はこれを見て、このかえるのように、根気がよければ 何事もできないことはないと悟りました。 それからは、一生懸命になって毎日、字をならいました。 ずんずん手が上がって、のちには名高い書手となりました。   尋常小学校 小学国語読本 巻3 昭和3年 小野道風(894年から966年)は、平安時代中期を代表する能書(書の上手な人)です。 小野道風の家系、小野氏は遣隋使で有名な小野妹子を祖先として、岑守・篁・美材等の学者や能書を輩出した名族でした。 幼いころから字が上手だった道風は、書をもって宮廷に仕え、数々の輝かしい業績を残しました。 愛知県春日井市ホームページより

1分で読む明治時代の教科書:井上でん はどんな人?

九州の久留米に、井上でんという女の人がいました。 子どもの頃から、ぬい物やはたおりなどの手芸が好きでした。 でんが12、3才のときのことです。 いろいろ工夫して、白いはた糸をところどころ糸でかたく結んでから、あい(藍)でそめて、干してみると、その結んだところが白いままになっていることに気づきました。 この糸で、布を織ってみると、白いまだらが現れました。 でんは、とてもよろこびました。 布のもようはとても珍しく、「しも降り」「あられ織」などと呼ばれ、たくさんの人が欲しがりました。 これが「久留米がすり」の始まりです。 でんは元気づいて、さらに工夫をかさね、多くの織物を作りました。 たくさんの弟子もついて、でんの織物は町の特産品になりました。 どんなことでも深く心をこめて考えれば、よい工夫が浮かぶものです。  

加藤景正(かとう かげまさ)

加藤景正は鎌倉時代の人です、藤四郎とも呼ばれました。 子供の頃から土で物を造ることが好きでした。 そして成長して陶器の焼き方を学びました。 その頃、中国は陶器づくりの技術が進んでいました。 加藤景正はこれを学ぼうと、道元和尚とともに中国に渡りました。 そして、6年間修行して、技術をきわめました。 27歳のとき日本に戻り、熊本の川尻に住みました。 そして持ち帰った土で3つの壺を焼いて、執権だった北条時頼と、道元和尚とに贈りました。 それから京都の山城に入り、近畿地方を広くめぐって、陶土を探しました。 しかし、心にかなうものがなかったので、失望しました。 それから尾張の国(愛知県)に入り、ようやく持ち帰った土と同じぐらい良い土を見つけました。景正はとても喜んで、すぐに窯を開きました。 その土地は東春日井郡の瀬戸村でした。世間で陶器を瀬戸物というのは、この瀬戸という土地の名前によるものなのです。 景正の子孫が代々、仕事を継いだので、明治時代になっても、瀬戸村には加藤という姓を持つ人がたくさんいました。 明治の終わり、瀬戸村には700戸あまりの世帯があり、みな同じ仕事をしていました。窯を持ち窯元をしている家は150あまりありました。 明治34年 高等小学校読本から

古橋輝兒(ふるはし てるのり)

古橋輝兒(てるのり)は愛知県の人でした。 子供の頃、家が貧しくなってきたので、これを挽回しようと、日夜つとめました。 輝兒(てるのり)は大人になると、山林業を始めようと思いました。 そこで、貧しい中、自らお金を出して、杉、ひのきなどの苗を買いました。 そして、これらの苗を、すべての村人の間で分けあって栽培しようと思いました。 村の人々はいやがりました。苗を焼きはらおうとする人もいました。 しかし輝兒(てるのり)は誠意をもって、丁寧に栽培するよう勧めました。 そして数万本の大木が村の共有地に生い立つようになり、 輝兒(てるのり)の徳を仰がぬものはいなくなりました。 また輝兒(てるのり)は、県庁で働いていたときに得たお金で、 茶の実や桑の苗を買って村人に与えました。 貧しい者には栽培するための費用を与えました。 結果、数年後には、この地方で製茶や養蚕が盛んになりました。 輝兒(てるのり)は、農談会をして耕作をすすめ、学校を興して師弟を教え、 財を出して貧者に恵みを行うなど、善行がとても多い人でした。 常に倹約し、自分のために使うことは少なく、公益のためには少しも惜しむことなく、 何事も自ら先んじて人を導くので、感化させられない人はいませんでした。 輝兒(てるのり)は、父親が病気になったときは寝食を忘れて看護し、氏神に全快を祈りました。 父の病が癒えると、毎夕、氏神の社に燈火を献じて感謝しました。 高等小学国語読本(明治34年)より

修身の教科書より:「写生派の祖」円山応挙が犯した鶏の絵の間違いとは?

円山応挙という人が、毎日、京都の祇園の神社に出かては、にわとりの遊んでいる様子を見ていました。 じっとにわとりばかりみているので、周りの人は不思議に思いました。 一年ほどたってから、応挙はにわとりの絵をかいて、神社に納めました。 お参りにきた人たちは、 「よくかけてるなあ」 「まるで生きているようだ」 といって、ほめました。 ある日、やさいを売って歩くおじいさんが通りかかって、しばらく見ていました。 「にわとりはいいが、草があるのはおかしい」 と、おじいさんは、ひとりごとをいいました。 応挙は、そのことを聞いて、おじいさんの家へたずねて行きました おじいさんは 「私は、絵のことは少しもわかりませんが、ただ長いあいだ、にわとりを飼っているので 羽の色つやが季節によってちがうことを知っています。 あのにわとりの羽は冬のようですが、そばに夏の草が書き添えてあるので ふしぎに思ったのです。失礼なことを申しまして、まことにすみませんでした。」 応挙は 「よいことを教えてくださった」 と、ていねいに礼を言って帰りました。 応挙はそののち、またにわとりの絵を描いて、おじいさんに見せました。 おじいさんはすっかり感心しました。 そして、それよりも、自分のような者からも、よく話を聞いて、絵を描こうとする応挙を、本当にりっぱな人だと思いました。  

円山応挙ってどんな人?

円山応挙は江戸時代中期にの画家です。日本の絵画の世界に、新しい考え方と技法を取り入れ「写生派の祖」とよばれます。 国宝「雪松図」 初等科修身(昭和17年)より