愛知県のはなし

尋常小学校の教科書より:小野道風(おのの とうふう)

昔、小野道風(おのの とうふう)という人がいました。
若いときに字を習いましたがうまく書けず困っていました。

あるとき、雨の降る日に道風が庭に出て池の傍を通りますと、しだれ柳の枝へ、かえるが飛びつこうとしています。
かえるは柳のつゆを虫とでも思ったのでしょう、飛んでは落ち、飛んでは落ち、何べんも、何べんも、飛びつこうとします。
だんだん高く飛べるようになって、とうとう柳に飛びつきました。

道風はこれを見て、このかえるのように、根気がよければ
何事もできないことはないと悟りました。
それからは、一生懸命になって毎日、字をならいました。
ずんずん手が上がって、のちには名高い書手となりました。

 

尋常小学校 小学国語読本 巻3 昭和3年

小野道風(894年から966年)は、平安時代中期を代表する能書(書の上手な人)です。
小野道風の家系、小野氏は遣隋使で有名な小野妹子を祖先として、岑守・篁・美材等の学者や能書を輩出した名族でした。
幼いころから字が上手だった道風は、書をもって宮廷に仕え、数々の輝かしい業績を残しました。

愛知県春日井市ホームページより

加藤景正(かとう かげまさ)

加藤景正は鎌倉時代の人です、藤四郎とも呼ばれました。

子供の頃から土で物を造ることが好きでした。
そして成長して陶器の焼き方を学びました。

その頃、中国は陶器づくりの技術が進んでいました。
加藤景正はこれを学ぼうと、道元和尚とともに中国に渡りました。
そして、6年間修行して、技術をきわめました。

27歳のとき日本に戻り、熊本の川尻に住みました。
そして持ち帰った土で3つの壺を焼いて、執権だった北条時頼と、道元和尚とに贈りました。

それから京都の山城に入り、近畿地方を広くめぐって、陶土を探しました。
しかし、心にかなうものがなかったので、失望しました。

それから尾張の国(愛知県)に入り、ようやく持ち帰った土と同じぐらい良い土を見つけました。景正はとても喜んで、すぐに窯を開きました。
その土地は東春日井郡の瀬戸村でした。世間で陶器を瀬戸物というのは、この瀬戸という土地の名前によるものなのです。

景正の子孫が代々、仕事を継いだので、明治時代になっても、瀬戸村には加藤という姓を持つ人がたくさんいました。
明治の終わり、瀬戸村には700戸あまりの世帯があり、みな同じ仕事をしていました。窯を持ち窯元をしている家は150あまりありました。

明治34年 高等小学校読本から

古橋輝兒(ふるはし てるのり)

古橋輝兒(てるのり)は愛知県の人でした。
子供の頃、家が貧しくなってきたので、これを挽回しようと、日夜つとめました。

輝兒(てるのり)は大人になると、山林業を始めようと思いました。
そこで、貧しい中、自らお金を出して、杉、ひのきなどの苗を買いました。
そして、これらの苗を、すべての村人の間で分けあって栽培しようと思いました。

村の人々はいやがりました。苗を焼きはらおうとする人もいました。
しかし輝兒(てるのり)は誠意をもって、丁寧に栽培するよう勧めました。
そして数万本の大木が村の共有地に生い立つようになり、
輝兒(てるのり)の徳を仰がぬものはいなくなりました。

また輝兒(てるのり)は、県庁で働いていたときに得たお金で、
茶の実や桑の苗を買って村人に与えました。
貧しい者には栽培するための費用を与えました。
結果、数年後には、この地方で製茶や養蚕が盛んになりました。

輝兒(てるのり)は、農談会をして耕作をすすめ、学校を興して師弟を教え、
財を出して貧者に恵みを行うなど、善行がとても多い人でした。

常に倹約し、自分のために使うことは少なく、公益のためには少しも惜しむことなく、
何事も自ら先んじて人を導くので、感化させられない人はいませんでした。

輝兒(てるのり)は、父親が病気になったときは寝食を忘れて看護し、氏神に全快を祈りました。
父の病が癒えると、毎夕、氏神の社に燈火を献じて感謝しました。

高等小学国語読本(明治34年)より