徳川光圀(水戸黄門)は何不自由のない身分でありながら、いつも倹約をしていました。
普段の着物や食べ物も、粗末なものでした。居間のつくりも、せまくて粗末でした。
天井や壁は、よそから来た手紙などの紙を使って自分で補修していました
光圀は、紙をていねいに使いました。ふだん、ものを書くときは、たいてい書き損じた紙の裏を使いました。
女中たちが紙を粗末に使うので、光圀はそれをやめさせようと思いました。
そこで、ある冬の日に、女中たちに紙すき場を見せてやりました。
その日は寒い日でしたが、紙すきの女性たちは川風に吹かれながら、冷たい水に入って、手も足も真っ赤にして働いていました。
女中たちはこのようすを見て、自分たちの使う紙が、どんなに人々の苦労のおかげで出来るかということが、わかりました。
そして、それからは、一枚でも粗末にしないようになりました。
江戸時代の紙
江戸時代の紙は貴重だったため、書き損じてしまった古い紙も捨てずに裏返して使用していました。
そこから「反故(反古)」は「書き損じてしまった古い紙」という意味になりました。
「無効にする」という意味で使われる「反故にする」の由来はここからきています。
また戦前までは「ほご」よりも「ほぐ」と読むのが一般的でした。
尋常小学校修身書 昭和11年
ある日、しづ子の家では、おばあさんと、しづ子と、5歳になる妹と、三人で夕ごはんを食べていました。
すると、急に、ごうという音がして、家がひどくゆれだしました。
「これは大きい地震だ。」
と思いましたが、逃げ出すひまもなく、家がたおれて、みんな、その下じきになってしまいました。
しかし、運良く、三人とも、けがはしませんでした。
妹は、おばあさんにすがりついて、泣き出しました。
あちらでも、こちらでも、助けを呼ぶ声がきこえてきます。
しづ子は、まず、おばあさんも、妹も、無事であることを、たしかめました。
それから、這っていって、みんなが、ぬけ出せる隙間を見つけました。
そのとき、ふと見ると、家の中に、火事が起こりかけている所がありました。
「これは、たいへんだ。」
と思って、急いで、おばあさんと妹とを連れて、見つけておいた隙間から這い出しました。
それから、
「おばさん、ここでちょっと待っていて下さい。私は火を消してきますから。」
といって、裏の井戸の水をバケツにくんでは、火の上にかけ、とうとう火を消してしまいました。
しづ子は、「もう、だいじょうぶ」と思ってから、おばあさんと妹とを、あぶなくない所へ連れていきました。
もし、しづ子の家から火事が出たら、すぐとなりの学校に燃えうつり、その先にある、風下の二十軒ばかりの家も、みんな焼けてしまうところでした。
家のことを心配して、急いで帰ってきた、しづ子のおとうさんと、おかあさんは、しづ子の落ち着いたはたらきぶりを聞くと、
「しづ子、よくやってくれた。」
といって、なみだを流して喜びました。
関東大震災をもとにしているのでしょうか。日本人は今も昔も地震に悩んでいたのですね。