1分で読める

修身の教科書より:1分で読める佐太郎のはなし

ある村に佐太郎という人がいました。 家が貧しいのに、近所の人には、いつも親切にしていました。 あるとき、佐太郎は、近所の家のわら屋根がとても傷んでるのを見て、 「なぜ早くなおさないのですか?」 とききました。 「貧乏で、なおすことができません」 という返事でした。 佐太郎は気の毒に思い、村中の家から、わらを少しずつもらい集め、自分も出して、それで屋根をふきかえさせました。 また、村に、火事で家を焼かれた人がいたときは、自分の家の藪の竹を切って、贈りました。 佐太郎が麦をまいているとき、急に雨が降り出しそうになったことがありました。 佐太郎は、急いで自分の仕事をかたづけて、近所の遅れている人の仕事を手伝いました。 日が暮れても、終わらなかったので、 「せっかくの肥料が流されるから。」 といって、たいまつをつけて、麦まきが終わるまで手伝いました。 尋常小学校修身書 昭和11年

昭和までは有名だった日本人:一分で読む、木村重成のほんとうの勇気

木村重成は豊臣秀頼の家来で、小さいときから、秀頼のそばで仕えていました。 重成が12、3歳の頃のことです。 ある日、大阪の城の中で、坊主と楽しく遊んでいましたが、どうしたわけか、坊主が、急に本気になって、ひどく腹を立てはじめました。 そして、さんざん悪口を言ったうえ、重成にうってかかろうとしました。 いあわせた大人の人たちは、どうなることかと心配しました。 重成は、無礼なことをすると思いましたが、じっとこらえて、とりあわず、そのまま奥にはいりました。 人々は、意外に思って、重成を臆病者だといって笑いました。 それからの坊主は、いばって仕方ありませんでした。 のちに、秀頼が徳川家康といくさをした時、重成は人を驚かすほどの勇ましい働きをしました。 そこで、以前に、「重成を臆病者だ」といって笑った人たちまでが、 「重成こそ、本当の勇気のある人だ。」 といって、感心しました。 木村重成 豊臣秀頼の家来。大坂冬の陣では、徳川軍と対等に戦い全国にその名を広めた。和議にあたっては秀頼の正使となり、その進退が礼にかなっているのを賞された。

修身の教科書より:一分で知る松平好房と礼儀の精神

松平好房は、小さい時から行儀の良い人で、自分の居間にいる時でも、父や母がおられる方に足を伸ばしたことは、決してありませんでした。 よそに行くときには、そのことを父母に告げて、帰って来た時には、きっと父母の前へ出て 「ただ今かえりました。」 といって、あいさつをし、それから、その日にあったことを話しました。 好房は、父母からものをもらう時は、ていねいにお辞儀をして、それを受けとり、いつまでもたいせつに持っていました。 また、遠くへ出られた父母から手紙をもらった時は、まず、いただいてから開き、読み終わると、また、いただいて、それをしまいました。 父母が何かおっしゃる時には、好房は、行儀よくきいて、おっしゃることにそむかないようにし、 また、人が好房の父母の話をする時でも、すわりなおして聞きました。 好房は、このように、父母をうやまって、行儀がよかったばかりでなく、親類の人にも、お客にも、いつも行儀よくしましたので、好房をほめない者はありませんでした。 松平好房 島原藩の主、松平忠房の長男。21歳で早世したが孝行で知られている。 尋常小学校修身書 昭和11年より

修身の教科書より:一分で知る松平定信の気質

松平定信は幕府の重要な役人でした。 ある年、地方に見回りに出かけた時、ある関所を通りました。 その時、定信は、何の気なしに、笠をかぶったまま、通りぬけようとしました。 すると、関所の役人の一人が、 「関所の規則ですから、笠をお取り下さい。」 といって、注意しました。 定信は、それを聞いて、 「なるほど、そうだった。」 と言って、すぐに笠をとって通りました。 その日、定信は、その土地の上役の者に、 「今日、笠をかぶったまま関所を通ろうとしたのは、まことに 自分の不心得であった。それを注意してくれた役人に、 あつくお礼を伝えてもらいたい。」 と言って、ていねいに挨拶しました。

1分で読める明治時代の教科書:川嶋又兵衛

近江(滋賀県)の商人は商売上手な上に辛抱強いです。 どんな苦労もがまんして、たゆまず遠い場所をまわって商売する人が多いです、 そのため、昔から商人の手本は近江商人といわれています。 昔、川嶋又兵衛という近江の商人がいました。 ある年、商売のために江戸から信州(長野県)にむかうとき、有名な峠にさしかかりました。 お供の者と、重荷を背負って登りましたが、坂道はけわしく、夏の暑さもあり、大変苦労しました。 二人はしばらく木のかげでやすみました。 お供の人は汗をぬぐうと 「商人になってこんなに苦しむぐらいなら、百姓になるほうがましだろう」 となげきました。 これを聞いた又兵衛は、いいました。 「わずかこのくらいの山ひとつでさえ、商人をやめようと思う人がいる。 もし同じような山が5つも6つもあったなら、それを越えて行く商人は、一人もいないだろう。 そうなれば、自分ひとりで行って儲けられるのに。山が一つだけしかないのは残念だ」 これを聞いたお供の人ははげまされて、一緒に山を越えて信州に入りました。 辛抱強い又兵衛は後に大商人になり、鬼又兵衛とよばれるようになりました。

1分で読む明治時代の教科書:井上でん はどんな人?

九州の久留米に、井上でんという女の人がいました。 子どもの頃から、ぬい物やはたおりなどの手芸が好きでした。 でんが12、3才のときのことです。 いろいろ工夫して、白いはた糸をところどころ糸でかたく結んでから、あい(藍)でそめて、干してみると、その結んだところが白いままになっていることに気づきました。 この糸で、布を織ってみると、白いまだらが現れました。 でんは、とてもよろこびました。 布のもようはとても珍しく、「しも降り」「あられ織」などと呼ばれ、たくさんの人が欲しがりました。 これが「久留米がすり」の始まりです。 でんは元気づいて、さらに工夫をかさね、多くの織物を作りました。 たくさんの弟子もついて、でんの織物は町の特産品になりました。 どんなことでも深く心をこめて考えれば、よい工夫が浮かぶものです。