修身の教科書

修身の教科書より:村役人になった佐太郎のはなし

佐太郎は、仕事に熱心でした。 佐太郎の作る田んぼや畑は、毎年、よく収穫できました。 そのため人々は、佐太郎にたずねて作物を作るようにしました。 佐太郎は作物の作り方を人にきかれると、親切に教えてやりました。 また、田んぼに水を引くときは、よく見回りました。 そして、ほかの人の田んぼでも、水がかわいていると、関をいれて、水が入ってくるようにしました。 また、夜、ひまな時には、村の子どもたちを集めて「いろは」や「九九」を教えました。 その頃、村には学校がなかったので、親たちはとても、よろこびました。 やがて、人々は、佐太郎にたのんで、村役人になってもらいました。 佐太郎はいそがしい中、よく村の世話をしました。   その頃、川に一つの土橋がかかっていましたが、たびたび壊れて、人々がこまっていました。 佐太郎は仲間の役人たちと相談して、それぞれのもらう給料から、少しずつためて、その金をつかって、土橋を石橋にかけかえました。 それから長い間、橋が壊れることはなくなり、とても便利になりました。 そのほかにも佐太郎は村のためになることをいろいろしたので、人々に尊敬され、村役人の長をまかされました。 尋常小学校修身書 昭和11年

修身の教科書より:1分で読める佐太郎のはなし

ある村に佐太郎という人がいました。 家が貧しいのに、近所の人には、いつも親切にしていました。 あるとき、佐太郎は、近所の家のわら屋根がとても傷んでるのを見て、 「なぜ早くなおさないのですか?」 とききました。 「貧乏で、なおすことができません」 という返事でした。 佐太郎は気の毒に思い、村中の家から、わらを少しずつもらい集め、自分も出して、それで屋根をふきかえさせました。 また、村に、火事で家を焼かれた人がいたときは、自分の家の藪の竹を切って、贈りました。 佐太郎が麦をまいているとき、急に雨が降り出しそうになったことがありました。 佐太郎は、急いで自分の仕事をかたづけて、近所の遅れている人の仕事を手伝いました。 日が暮れても、終わらなかったので、 「せっかくの肥料が流されるから。」 といって、たいまつをつけて、麦まきが終わるまで手伝いました。 尋常小学校修身書 昭和11年

修身の教科書より:鈴木今右衛門の慈善

昔、山形県の鶴岡に、鈴木今右衛門という情け深い人がいました。 大きな飢饉のあったとき、自分の家のお金や米、麦などを出して、飢えている人たちを助けました。 それでも、まだ餓死する人がいるので、田や畑はもちろん家の道具まで売って、たくさんの人を救いました。 今右衛門の妻も、持っていた着物などの大部分を売って、人々を助けました。しかし晴れ着がまだ二枚だけ残っていました。 今右衛門が 「外に出るのに、着替えの一つぐらいはあったほうがいいだろう。 それだけは残しておいたらどうか?」 と言いますと、妻は、こういいました。 「着替えがあると、外にも出るようになります。 着替えがなくなって、外に出ることができなくなれば、櫛やかんざしもいりません。 残らず売って、もっとたくさんの人を助けましょう。」 そして、晴れ着と一緒に櫛やかんざしも売ってしまいました。 今右衛門夫婦の間には十二歳になる娘がいました。 ある寒い日、同じ年頃の女の子が物乞いに来ました。 母親はそれを見て、娘にこういいました。 「お前は綿入りの服を二枚重ねて暖かくしているけれども、あの子は綿の入ってない服一枚だけで、ふるえています。一枚あげてはどうですか?」 娘はすぐに、上に着ている、良い方の上着をぬいで、その子に渡してやりました。
鈴木今右衛門とは?
鶴岡藩の藩士。隠居後は農業に従事します。 奥羽大飢饉の時、私財をなげうって慈善を行いました。 鶴岡市の出羽三山神社には崇峻天皇の皇子(蜂子皇子)の墓があり、東北唯一の皇族の墓として、今も宮内庁に管理されています。

修身の教科書より:地震がきたらどうする?

ある日、しづ子の家では、おばあさんと、しづ子と、5歳になる妹と、三人で夕ごはんを食べていました。 すると、急に、ごうという音がして、家がひどくゆれだしました。 「これは大きい地震だ。」 と思いましたが、逃げ出すひまもなく、家がたおれて、みんな、その下じきになってしまいました。 しかし、運良く、三人とも、けがはしませんでした。 妹は、おばあさんにすがりついて、泣き出しました。 あちらでも、こちらでも、助けを呼ぶ声がきこえてきます。 しづ子は、まず、おばあさんも、妹も、無事であることを、たしかめました。 それから、這っていって、みんなが、ぬけ出せる隙間を見つけました。 そのとき、ふと見ると、家の中に、火事が起こりかけている所がありました。 「これは、たいへんだ。」 と思って、急いで、おばあさんと妹とを連れて、見つけておいた隙間から這い出しました。 それから、 「おばさん、ここでちょっと待っていて下さい。私は火を消してきますから。」 といって、裏の井戸の水をバケツにくんでは、火の上にかけ、とうとう火を消してしまいました。 しづ子は、「もう、だいじょうぶ」と思ってから、おばあさんと妹とを、あぶなくない所へ連れていきました。 もし、しづ子の家から火事が出たら、すぐとなりの学校に燃えうつり、その先にある、風下の二十軒ばかりの家も、みんな焼けてしまうところでした。 家のことを心配して、急いで帰ってきた、しづ子のおとうさんと、おかあさんは、しづ子の落ち着いたはたらきぶりを聞くと、 「しづ子、よくやってくれた。」 といって、なみだを流して喜びました。
関東大震災をもとにしているのでしょうか。日本人は今も昔も地震に悩んでいたのですね。

昭和までは有名だった日本人:一分で読む、木村重成のほんとうの勇気

木村重成は豊臣秀頼の家来で、小さいときから、秀頼のそばで仕えていました。 重成が12、3歳の頃のことです。 ある日、大阪の城の中で、坊主と楽しく遊んでいましたが、どうしたわけか、坊主が、急に本気になって、ひどく腹を立てはじめました。 そして、さんざん悪口を言ったうえ、重成にうってかかろうとしました。 いあわせた大人の人たちは、どうなることかと心配しました。 重成は、無礼なことをすると思いましたが、じっとこらえて、とりあわず、そのまま奥にはいりました。 人々は、意外に思って、重成を臆病者だといって笑いました。 それからの坊主は、いばって仕方ありませんでした。 のちに、秀頼が徳川家康といくさをした時、重成は人を驚かすほどの勇ましい働きをしました。 そこで、以前に、「重成を臆病者だ」といって笑った人たちまでが、 「重成こそ、本当の勇気のある人だ。」 といって、感心しました。 木村重成 豊臣秀頼の家来。大坂冬の陣では、徳川軍と対等に戦い全国にその名を広めた。和議にあたっては秀頼の正使となり、その進退が礼にかなっているのを賞された。

修身の教科書より:一分で知る松平好房と礼儀の精神

松平好房は、小さい時から行儀の良い人で、自分の居間にいる時でも、父や母がおられる方に足を伸ばしたことは、決してありませんでした。 よそに行くときには、そのことを父母に告げて、帰って来た時には、きっと父母の前へ出て 「ただ今かえりました。」 といって、あいさつをし、それから、その日にあったことを話しました。 好房は、父母からものをもらう時は、ていねいにお辞儀をして、それを受けとり、いつまでもたいせつに持っていました。 また、遠くへ出られた父母から手紙をもらった時は、まず、いただいてから開き、読み終わると、また、いただいて、それをしまいました。 父母が何かおっしゃる時には、好房は、行儀よくきいて、おっしゃることにそむかないようにし、 また、人が好房の父母の話をする時でも、すわりなおして聞きました。 好房は、このように、父母をうやまって、行儀がよかったばかりでなく、親類の人にも、お客にも、いつも行儀よくしましたので、好房をほめない者はありませんでした。 松平好房 島原藩の主、松平忠房の長男。21歳で早世したが孝行で知られている。 尋常小学校修身書 昭和11年より

修身の教科書より:一分で知る松平定信の気質

松平定信は幕府の重要な役人でした。 ある年、地方に見回りに出かけた時、ある関所を通りました。 その時、定信は、何の気なしに、笠をかぶったまま、通りぬけようとしました。 すると、関所の役人の一人が、 「関所の規則ですから、笠をお取り下さい。」 といって、注意しました。 定信は、それを聞いて、 「なるほど、そうだった。」 と言って、すぐに笠をとって通りました。 その日、定信は、その土地の上役の者に、 「今日、笠をかぶったまま関所を通ろうとしたのは、まことに 自分の不心得であった。それを注意してくれた役人に、 あつくお礼を伝えてもらいたい。」 と言って、ていねいに挨拶しました。

修身の教科書より:永田佐吉と恩人

永田佐吉は11歳のとき、田舎から出てきて、名古屋のある紙屋に奉公しました。 佐吉は正直者で、よく働く上に、ひまがあると、習字をしたり、本を読んだりして楽しんでいました。 そのため、主人にたいそう、かわいがられました。 しかし、仲間の者たちは佐吉をねたんで、店をやめさせるように、幾度も主人に願い出ました。 主人は仕方なく、佐吉を雇うをのやめました。 佐吉は家に帰ってから、綿の仲買などをして暮らしていましたが、主人を恨むようなことは少しもなく、いつも、世話になった恩を忘れませんでした。 そして買い出しに出た道のついでなどには、必ず紙屋に行って、主人のご機嫌を伺いました。 その後、紙屋は、とても衰退して、見るのも気の毒なありさまになりました。 長い間、世話になっていた奉公人も、誰一人、出入りしなくなりました。 しかし佐吉だけは、ときどき見舞いに行き、いろいろな物を贈って主人をなぐさめ、その暮らしを助けました。     永田佐吉は江戸中期の豪商です。人徳者で、仏佐吉とも呼ばれました。 現在も、岐阜県羽島市にある佐吉大仏は、彼により建てられたものです。     尋常小学校修身書 昭和11年

修身の教科書より:一分で読める 馬をいたわる話

昔、木曽の山の中に、孫兵衛という馬方がありました。 ある時、一人の僧が、その馬に乗りました。 道のわるい所に入ると、そのたびに、孫兵衛は、馬の荷に肩を入れて、 「おっと、親方、あぶない、あぶない。」 といって、馬をたすけてやりました。 僧はふしぎに思って、そのわけを尋ねました。 すると孫兵衛は、 「私ども親子四人は、この馬のおかげで暮らしておりますから、 馬とは思わず、親方と思って、いたわるのでございます。」 と答えました。 約束した所へついたので、僧は代金を払いました。 孫兵衛は、まず、そのお金で餅を買って、馬に食べさせました。 そして、家の前に行くと、孫兵衛の妻と子が、馬のいななきを聞きつけて、むかえに出て来て、さっそく馬にまぐさをやりました。 僧は、それを見て、孫兵衛の家中が、みんな心がけがよいのに、たいそう感心しました。 尋常小学校修身 昭和11年より

修身の教科書より:松平好房の行儀

松平好房(まつだいら よしふさ)は小さい時から行儀の良い人で、自分の居間にいる時でも、父や母がおられる方に足を伸ばしたことは、決してありませんでした。 よそに行くときには、そのことを父母に告げて、帰って来た時には、きっと父母の前へ出て 「ただ今かえりました。」 といって、あいさつをし、それから、その日にあったことを話しました。 好房は、父母からものをもらう時は、ていねいにお辞儀をして、それを受け、いつまでもたいせつに持っていました。 また、遠くへ出られた父母から手紙をもらった時は、まず、いただいてから開き、読み終わると、また、頂いて、それをしまいました。 父母が何かおっしゃる時には、好房は、行儀よくきいて、おっしゃることにそむかないようにし、また人が好房の父母の話をする時でも、すわりなおして聞きました。 好房は、このように、父母をうやまって、行儀がよかったばかりでなく、親類の人にも、お客にも、いつも行儀よくしましたので、好房をほめない者はありませんでした。 松平好房 島原藩の主、松平忠房の長男。21歳で早世したが孝行で知られている。

修身の教科書より:「写生派の祖」円山応挙が犯した鶏の絵の間違いとは?

円山応挙という人が、毎日、京都の祇園の神社に出かては、にわとりの遊んでいる様子を見ていました。 じっとにわとりばかりみているので、周りの人は不思議に思いました。 一年ほどたってから、応挙はにわとりの絵をかいて、神社に納めました。 お参りにきた人たちは、 「よくかけてるなあ」 「まるで生きているようだ」 といって、ほめました。 ある日、やさいを売って歩くおじいさんが通りかかって、しばらく見ていました。 「にわとりはいいが、草があるのはおかしい」 と、おじいさんは、ひとりごとをいいました。 応挙は、そのことを聞いて、おじいさんの家へたずねて行きました おじいさんは 「私は、絵のことは少しもわかりませんが、ただ長いあいだ、にわとりを飼っているので 羽の色つやが季節によってちがうことを知っています。 あのにわとりの羽は冬のようですが、そばに夏の草が書き添えてあるので ふしぎに思ったのです。失礼なことを申しまして、まことにすみませんでした。」 応挙は 「よいことを教えてくださった」 と、ていねいに礼を言って帰りました。 応挙はそののち、またにわとりの絵を描いて、おじいさんに見せました。 おじいさんはすっかり感心しました。 そして、それよりも、自分のような者からも、よく話を聞いて、絵を描こうとする応挙を、本当にりっぱな人だと思いました。  

円山応挙ってどんな人?

円山応挙は江戸時代中期にの画家です。日本の絵画の世界に、新しい考え方と技法を取り入れ「写生派の祖」とよばれます。 国宝「雪松図」 初等科修身(昭和17年)より