日本の伝統に思うこと

塾から大学へ 明治期の慶應義塾が得たもの失ったもの

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慶應義塾大学は日本の私大の最高峰と評される大学です。
とくに首都圏の文系就職においては東大に劣らない評価を得ています。

受験においても「慶応ブランド」は非常に高い人気があります。素直に憧れて、お受験に血道を上げる人もいれば、「選民意識が強く鼻持ちならない」と眉をしかめる人もいます。

楽天の三木谷氏など、慶應付属校に子供を入れたがる著名人も後をたちません。

預言者郷里に容れられず?西日本の慶応人気はいまいち


関東で絶対的なブランド力を持つ慶應義塾ですが、創設者の福沢諭吉(以下「諭吉」)は関東人ではありません。大阪生まれ、大分育ちです。

諭吉の生誕地の大阪では、慶応ブランドは、関東のような人気はありません。大阪大、神戸大といった地元の国立大学の方が評価が高いです。
北野高校は京大に毎年100名近い合格者を出す、大阪トップの進学校です。しかし、慶応への進学を選ぶ受験生は合格者19名中、5名しかいません(2022年)。

大分県は、諭吉が2歳から19歳まで育った場所です。生前は、実家があるため、よく帰省していました。大阪より、こちらが出身地といっていいでしょう。
大分の代表的な進学校、大分上野丘高等学校の22年の合格実績は、東大合格者18名、九州大学66名、慶応7名、早稲田14名です。こちらは進学者ではなく合格者なので、東大など他大学と併願している慶応受験生もいると思われます。それを考えると少ないですね。

関東出身者としては驚きます。

ちなみに早稲田大学の創設者である大隈重信も佐賀県の出身です。早慶は2校とも、九州人による大学なんですね。

 

「大学」ではなかった時代の慶應「義塾」

国会図書館では「慶應義塾出身名流列」という本を無料閲覧できます。明治42年出版です。

慶応出身者のうち、社会的地位のある人物480名を抜粋して、写真付きでとりあげています。上の写真のような内容です。素晴らしい肩書のある人物ばかりです。
しかし、彼らの多くは、現代人が想像するような慶応OBではありません。

 

身分を問わず学問のチャンスを与えた慶應義塾

明治前半までの慶応の塾生は、主に以下の4つからの出身でした。

漢学塾から

明治期には漢学塾とよばれる私塾が各地に存在していました。四書五経などの儒教文化を教える塾です。
(関連記事:「明治~戦前の偉人たちを生んだ漢学 これが本来の日本の道徳」)
諭吉は脱亜入欧を唱えた人物として知られています。しかし、自身はこうした漢学塾で教育を受けた、漢籍に明るい人物でした。
漢学塾は個人運営が多く、塾同士の人的交流が盛んでした。慶應義塾もこうした塾間の縁故を多くもっていました。そのため、各地の漢学塾に通う者が慶応義塾に興味をもち、上京しました。
480名も、多くがこの漢学塾ルートで塾生になった人物です。

師範学校

当時、成績優秀でも中学校に進学する学費がない生徒は、多くが師範学校に進学しました。
師範学校は教員養成学校である代わりに、学費が無料でした。
各地の師範学校を卒業した後、やはり教員を一生の職にしたくないと思った人が、貯金を手に上京し、慶応義塾に入塾しました。

旧制中学

地元の旧制中学に通い、国立大学(帝国大学)を目指していたものの、資金難になった学生が慶応に入塾するケースもありました。
当時の慶応は三ヶ月に一度、実施される試験に合格すれば、どんどん進級できました。
優秀ならば、最短で一年程度で卒業することができ、国立大学より安くすみました。

また、地元の旧制中学でトラブルを起こしたり、挫折した学生も集まりました。
旧制中学出身の塾生は、やはり優秀なことが多かったようです。
当時は本科の上位三名までは兵役の免除もありました。

小学校

地元の小学校を卒業すると、すぐに上京し慶応に入学するケースです。
若干12歳で寮に入ります。日本各地から富裕層の子息が入学しました。
下に述べますが、明治後半からは、このルートを歩んだ学生のみが、慶應義塾の正式な卒業生と認められることになります。

 

幼稚舎は素行不良の塾生を監督するため設立された

明治維新が始まり社会が不安定になると、塾生児童たちの風紀も乱れ、粗野な振る舞いが目立つようになりました。
それを矯正するため、明治2年、義塾内に童子寮が設けられました。これが、のちの幼稚舎になります。
監督にあたったのは、当時、慶應義塾職員だった肥田昭作氏でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A5%E7%94%B0%E6%98%AD%E4%BD%9C
肥田氏は、現在の三井住友銀行と東京三菱UFJ銀行のそれぞれの前身の銀行の頭取になる人物です。

現在の都内の小学校お受験で、一番人気の慶応幼稚舎が、素行不良の矯正のため生まれた施設とは驚きですね。


肥田昭作氏

入塾・退塾が自由「別科」の存在

慶應義塾は卒業というものがなく、退塾の時期は随時、各自にまかせるという形でした。
卒業という制度をもうけましたが、同時にそれとは別に、学問に興味のある17歳以上の人を受け入れる「別科」とよばれるコースをもうけました。別科は時期によって変則科または予備とよばれ、修業年数が設定されていませんでした。
今でいう社会人コースのようなものでしょうか。この別科の学生を増やすこともまた、塾経営のポイントでした。

480名の中には、この別科に在籍していたり、初期の随時退塾の時代に在籍していた人物も含まれています。

 

このように自由な制度であったため、あちこちの学校から渡り歩いて来る者もいました。
東京専門学校(早稲田の前身)、法学院(中央大学の前身)、青山英和学校(青山学院の前身)などから慶応に入学、または去っていく者が存在しました。しかし、こうした学習者の行き来があるのは、私立の学校間ばかりでした。
当時から、国立大学と私立学校の間には溝がありました。

 

自由な「塾」から富裕層向けの「大学」へ

慶應義塾は、自由に学問を追求できる場として、世間から高い評価を得ていました。しかし、あくまで「塾」の扱いでした。
私立ゆえに、国からは正式な大学と認められず、帝国大学よりも下に見られていました。「実業家養成所」よばわりされてもいました。
そして、そのことが関係者たちのコンプレックスになっていました。

「官尊民卑」を打開しようと、慶応義塾は大学化を国に働きかけ、認められます。

1919(大正8)年、大学令が施行されます。私立の学校も正式な大学と認める法律です。

しかし、この念願の大学化が、皮肉にも慶應義塾を初期理念から離れた組織にしていきます。

 

 大学化と引き換えに失ったもの

大学令は、どの私立学校の大学化も認めるというわけではありませんでした。候補になっている私立学校は、事前に下準備をする必要がありました。
官立の旧制中学→帝国大学の制度と同じように、10年にわたる一貫教育ができる施設にすることを求められたのです。

そのため、慶應義塾は、明治29年より本科・別科の制度を廃止し、大学部と普通部(中学・高校)を設置します。

そして、普通部~大学部までの10年間を慶應義塾で過ごした者のみ、卒業生と認めると制定します。

以降、師範学校出身者など経済的に余裕がない者は、慶応の卒業生になれなくなりました。

自由に学問を求める別科の塾生もいなくなります。

人数が変動する別科の塾生がいなくなったことで、授業料収入は普通部・大学部の塾生からのみとなりました。
社会的に成功している卒業生や、富裕層の保護者からの寄付が、大学経営において重要なものとなっていきます。
現代では「慶応付属に子供を通わせる家庭なら、上流であるのが当たり前」と考えるのが市民感覚です。実際、自分たちは庶民とは違う、という意識の保護者も少なくないようです。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉は、遠いものになりました。

 

教育の画一化とは人材の画一化

明治期は、有志が各地でばらばらに開いていた「私塾」から、政府が統率する「学校」に教育が画一化されていった時代でした。

教育の画一化は、同じ能力を持つ人材をたくさん生み出す政策です。
そして、画一化された教育を受けて育った人たちは、当然ながら成人後の思考回路も画一化されている傾向です。権力者など、プロパガンダを掲げる側にとっては、大衆を動かしやすい社会になるともいえます。

太平洋戦争時、多くの一般市民がプロパガンダに素直に従い戦地に向かったのは、すでに「塾」ではなく「学校」の出身者に世代交代した後だったためかもしれません。

そして、戦後になると、旧制中学や師範学校、高等小学校も統一され、更に画一化が進みます。

画一的な人物がたくさん生み出されるということは、替わりがいくらでもいる人材だらけになるということです。
日本は国民の大多数が高等教育を受けている国なのに、低賃金や労働環境の悪さに苦しむ人が多いのは、その高等教育の内容が「皆と同じことしかできない人」を生み出しているからでしょう。

そうだとわかっていても、「文明国なら学校制度は当然だ。画一化には逆らえない」と思われるかもしれません。

しかし、現在、中国や香港では、学校制度と並行する形で、昔風の私塾が見直され、人気を集めています。
これら私塾は、教える内容も明治期の日本の私塾と同じく、四書五経など伝統的な儒教です。

次記事「今どき儒教で塾通い?!中国の未来が明るい理由」では、こうした東アジアの私塾が行う、現代の若者への伝統教育について取り上げます。

 

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