一分でよめる

1分で読める!明治時代の女子のつとめ

女子のつとめは、多くが家の中の仕事です。 食べ物を用意し、衣服を仕立て、老人をいたわり、子どもを養育し、親戚やご近所との付き合いをし、来客をもてなすといったことです。 たとえ学問や技能、芸術に優れていても、これらのことが欠けていては役にたちません。 そのため、女子は幼い頃からできるだけ家事を手伝い、これらのことに、滞りないようにならなくてはなりません。 加えて、暇があれば、縫箔、編み物、造花などの稽古をするのも、よいでしょう。 糸繰り、機械織りなども女子にはふさわしい作業です。 我が国の重要な産物で、年々、海外に輸出する織物、生糸などは、たいてい女子の手で作られるものです。 ただ自分自身を着飾ることばかり考えて、女子の大切なつとめを、おろそかにしてはいけません。    
縫箔(ぬいはく)とは?
刺繍 (ししゅう) と摺箔 (すりはく) を併用して布地に模様を表すこと
造花とは?
明治期には編み物で作る九重編造花という造花が流行しました。九重編造花は明治、大正期の皇室御用品でもありました。
ユザワヤより 高等小学校国語読本 明治34年

明治時代の教科書:1分で読む伊藤小左衛門 後編

前編あらすじ:三重県の農家 伊藤小左衛門は茶畑を作り、開港したばかりの横浜港でお茶を売り、製茶業を成功させました。 (「明治時代の教科書:1分で読む伊藤小左衛門 前編」)
製茶で成功した伊藤小左衛門は、養蚕が利益を出すと知り、まず桑2百株を手に入れました。 そして長い年月、苦労を重ねた末、ついに製糸機械を設置して、多くの生糸を造りだしました。 しかし品質がよくなく、大きな損失を出してしまいました。 小左衛門は自ら、上野の富岡製糸場で修行をし、帰ったあと、五十二貫目の糸を製造して、横浜に送りました。 しかし、また損失をこうむることになりました。 小左衛門は少しもあきらめず、明治9年には妻と娘を富岡製糸場に送って修行をさせました。 また機械を変え、職工を増やし、それから二百十貫目の糸を製造して、横浜に送りました。 このとき、ようやく富岡製にも劣らない品質だと評価され、高値がつきました。 伊藤小左衛門はますます励んで製糸、製茶業を盛んにし、その志をかなえました。 高等小学校国語読本 明治34年

明治時代の教科書:1分で読む伊藤小左衛門と茶畑

伊藤小左衛門は三重県の人です。代々、農業をしている家の生まれでした。 小左衛門は若い時から産業を起こしたいという志がありました。 外国貿易が始まった頃、製茶業を始めようと思い立ち、山地を開拓してお茶の木を植えました。 他の人にも勧めましたが、人々はそれに従わず、あざけり笑う人もいました。 小左衛門は気にしないで、茶畑を広め、5年後には二十貫目の茶を収穫しました。 のちに横浜港が開港したとき、十数万片のお茶を外国人に売り、二千六百両の利益を得ました。 以前、あざけり笑った者たちも、これを見て感心し、争うように製茶業をはじめました。 そして製茶業は国中に広まり、大変な産出量になりました。
伊藤小左衛門とは?
三重県四日市市の企業家。幕末期から明治初期にかけて四日市地域に近代産業を浸透させ、貿易を重視して産業の近代化を推進した。
高等小学校国語読本 明治34年

1分で読める明治時代の教科書:「家訓をまもれ」

私の家には、父と母と祖父母がいて、いつも私たちを愛してくれます。 私は、いつも妹と一緒に学校に行き、家に帰った後は復習するようにしています。 弟はまだ学校に通ってませんが、私のそばに来て、読み書きの真似をして、遊んでいます。 我の家は、先祖ががんばって建てた家です。 居間の長押(なげし)には、「勤倹」という字が記された額が、かかっています。 「勤にあらざれば、財を得難く、倹にあらざれば、家を保ちがたし」 という意味です。 そのため、私たちはこの貴い家訓を守って、ますます家を栄えさせることを、心がけなくてはいけません。 もし、この家訓を破るときは、先祖に対して非常に不孝をしたというべきです。 高等小学校国語読本 明治34年

修身の教科書より:1分で読める佐太郎のはなし

ある村に佐太郎という人がいました。 家が貧しいのに、近所の人には、いつも親切にしていました。 あるとき、佐太郎は、近所の家のわら屋根がとても傷んでるのを見て、 「なぜ早くなおさないのですか?」 とききました。 「貧乏で、なおすことができません」 という返事でした。 佐太郎は気の毒に思い、村中の家から、わらを少しずつもらい集め、自分も出して、それで屋根をふきかえさせました。 また、村に、火事で家を焼かれた人がいたときは、自分の家の藪の竹を切って、贈りました。 佐太郎が麦をまいているとき、急に雨が降り出しそうになったことがありました。 佐太郎は、急いで自分の仕事をかたづけて、近所の遅れている人の仕事を手伝いました。 日が暮れても、終わらなかったので、 「せっかくの肥料が流されるから。」 といって、たいまつをつけて、麦まきが終わるまで手伝いました。 尋常小学校修身書 昭和11年

一分で知る徳川光圀(水戸黄門)と倹約

徳川光圀(水戸黄門)は何不自由のない身分でありながら、いつも倹約をしていました。 普段の着物や食べ物も、粗末なものでした。居間のつくりも、せまくて粗末でした。 天井や壁は、よそから来た手紙などの紙を使って自分で補修していました 光圀は、紙をていねいに使いました。ふだん、ものを書くときは、たいてい書き損じた紙の裏を使いました。 女中たちが紙を粗末に使うので、光圀はそれをやめさせようと思いました。 そこで、ある冬の日に、女中たちに紙すき場を見せてやりました。 その日は寒い日でしたが、紙すきの女性たちは川風に吹かれながら、冷たい水に入って、手も足も真っ赤にして働いていました。 女中たちはこのようすを見て、自分たちの使う紙が、どんなに人々の苦労のおかげで出来るかということが、わかりました。 そして、それからは、一枚でも粗末にしないようになりました。    
江戸時代の紙
江戸時代の紙は貴重だったため、書き損じてしまった古い紙も捨てずに裏返して使用していました。 そこから「反故(反古)」は「書き損じてしまった古い紙」という意味になりました。 「無効にする」という意味で使われる「反故にする」の由来はここからきています。 また戦前までは「ほご」よりも「ほぐ」と読むのが一般的でした。
尋常小学校修身書 昭和11年

修身の教科書より:一分で知る松平好房と礼儀の精神

松平好房は、小さい時から行儀の良い人で、自分の居間にいる時でも、父や母がおられる方に足を伸ばしたことは、決してありませんでした。 よそに行くときには、そのことを父母に告げて、帰って来た時には、きっと父母の前へ出て 「ただ今かえりました。」 といって、あいさつをし、それから、その日にあったことを話しました。 好房は、父母からものをもらう時は、ていねいにお辞儀をして、それを受けとり、いつまでもたいせつに持っていました。 また、遠くへ出られた父母から手紙をもらった時は、まず、いただいてから開き、読み終わると、また、いただいて、それをしまいました。 父母が何かおっしゃる時には、好房は、行儀よくきいて、おっしゃることにそむかないようにし、 また、人が好房の父母の話をする時でも、すわりなおして聞きました。 好房は、このように、父母をうやまって、行儀がよかったばかりでなく、親類の人にも、お客にも、いつも行儀よくしましたので、好房をほめない者はありませんでした。 松平好房 島原藩の主、松平忠房の長男。21歳で早世したが孝行で知られている。 尋常小学校修身書 昭和11年より

修身の教科書より:一分で知る松平定信の気質

松平定信は幕府の重要な役人でした。 ある年、地方に見回りに出かけた時、ある関所を通りました。 その時、定信は、何の気なしに、笠をかぶったまま、通りぬけようとしました。 すると、関所の役人の一人が、 「関所の規則ですから、笠をお取り下さい。」 といって、注意しました。 定信は、それを聞いて、 「なるほど、そうだった。」 と言って、すぐに笠をとって通りました。 その日、定信は、その土地の上役の者に、 「今日、笠をかぶったまま関所を通ろうとしたのは、まことに 自分の不心得であった。それを注意してくれた役人に、 あつくお礼を伝えてもらいたい。」 と言って、ていねいに挨拶しました。

修身の教科書より:永田佐吉と恩人

永田佐吉は11歳のとき、田舎から出てきて、名古屋のある紙屋に奉公しました。 佐吉は正直者で、よく働く上に、ひまがあると、習字をしたり、本を読んだりして楽しんでいました。 そのため、主人にたいそう、かわいがられました。 しかし、仲間の者たちは佐吉をねたんで、店をやめさせるように、幾度も主人に願い出ました。 主人は仕方なく、佐吉を雇うをのやめました。 佐吉は家に帰ってから、綿の仲買などをして暮らしていましたが、主人を恨むようなことは少しもなく、いつも、世話になった恩を忘れませんでした。 そして買い出しに出た道のついでなどには、必ず紙屋に行って、主人のご機嫌を伺いました。 その後、紙屋は、とても衰退して、見るのも気の毒なありさまになりました。 長い間、世話になっていた奉公人も、誰一人、出入りしなくなりました。 しかし佐吉だけは、ときどき見舞いに行き、いろいろな物を贈って主人をなぐさめ、その暮らしを助けました。     永田佐吉は江戸中期の豪商です。人徳者で、仏佐吉とも呼ばれました。 現在も、岐阜県羽島市にある佐吉大仏は、彼により建てられたものです。     尋常小学校修身書 昭和11年

修身の教科書より:一分で読める 馬をいたわる話

昔、木曽の山の中に、孫兵衛という馬方がありました。 ある時、一人の僧が、その馬に乗りました。 道のわるい所に入ると、そのたびに、孫兵衛は、馬の荷に肩を入れて、 「おっと、親方、あぶない、あぶない。」 といって、馬をたすけてやりました。 僧はふしぎに思って、そのわけを尋ねました。 すると孫兵衛は、 「私ども親子四人は、この馬のおかげで暮らしておりますから、 馬とは思わず、親方と思って、いたわるのでございます。」 と答えました。 約束した所へついたので、僧は代金を払いました。 孫兵衛は、まず、そのお金で餅を買って、馬に食べさせました。 そして、家の前に行くと、孫兵衛の妻と子が、馬のいななきを聞きつけて、むかえに出て来て、さっそく馬にまぐさをやりました。 僧は、それを見て、孫兵衛の家中が、みんな心がけがよいのに、たいそう感心しました。 尋常小学校修身 昭和11年より

一分で読める本居宣長の人柄:修身の教科書より

本居宣長は、日本の昔の本を読んで、日本がとても立派な国であることを人々に知らせた、名高い学者です。 宣長は、たくさんの本を持っていました。そして、ひとつひとつ、本棚に入れて、よく整頓していました。 そのため、夜、明かりをつけなくても、思うように、どの本でも、取り出すことができました。 宣長はいつも家の人に、 「どんな物でも、それを探すときのことを思えば、しまう時に気をつけなければならない。入れる時に少しの面倒はあっても、いるときに早く出せる方がよい」 と、言ってきかせました。 宣長が名高い学者になり、立派な仕事を残したのは、普段からものをよく整頓しておいたことが、どれだけ役に立ったかしれません。

1分で読める明治時代の教科書:川嶋又兵衛

近江(滋賀県)の商人は商売上手な上に辛抱強いです。 どんな苦労もがまんして、たゆまず遠い場所をまわって商売する人が多いです、 そのため、昔から商人の手本は近江商人といわれています。 昔、川嶋又兵衛という近江の商人がいました。 ある年、商売のために江戸から信州(長野県)にむかうとき、有名な峠にさしかかりました。 お供の者と、重荷を背負って登りましたが、坂道はけわしく、夏の暑さもあり、大変苦労しました。 二人はしばらく木のかげでやすみました。 お供の人は汗をぬぐうと 「商人になってこんなに苦しむぐらいなら、百姓になるほうがましだろう」 となげきました。 これを聞いた又兵衛は、いいました。 「わずかこのくらいの山ひとつでさえ、商人をやめようと思う人がいる。 もし同じような山が5つも6つもあったなら、それを越えて行く商人は、一人もいないだろう。 そうなれば、自分ひとりで行って儲けられるのに。山が一つだけしかないのは残念だ」 これを聞いたお供の人ははげまされて、一緒に山を越えて信州に入りました。 辛抱強い又兵衛は後に大商人になり、鬼又兵衛とよばれるようになりました。