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- 0808
山桜が咲き誇っている中に、赤い細い葉がまばらに混じっている様は、くらべるものがないぐらい美しい。
葉が青くなってしまって花がまばらになってしまうと、だいぶ劣ってしまう。
山桜といわれるものも様々だ。細かく見れば、木ごとに変わったところがあって、全く同じ木はない。
また、八重、一重などといった種類も様がわりして、とても美しい。
曇った日に見上げて見る花は色鮮やかに見えない。
松などが青く繁ったかなたに咲く花は、色が殊のほか映えてみえる。
空がよく晴れた日、日影のさす方から見る花の美しさにならぶものはない。同じ花と思えないほどだ。
国語読本 巻3 明治34年
雨の穴
子どもが空一面の星を見て、
「ああ、わかった。あの光るところが、雨の降る穴だ。」
星の数
ある晩、弟が庭に出て
「一つ、二つ」と数えていました。
兄が
「おまえ、何を数えているのだ?」
と、尋ねますと
「星を数えています。」
「こんな暗い晩に数えないで、昼に数えるがよい。」
星とり
「おい、長い竿を振り回して、何をしているのだ?」
「星を二つ三つ、はたき落とそうとしているのだ。」
「ばかなことを言う。そんなところで届くものか。屋根へ上がってはたけ。」
昔、小野道風(おのの とうふう)という人がいました。
若いときに字を習いましたがうまく書けず困っていました。
あるとき、雨の降る日に道風が庭に出て池の傍を通りますと、しだれ柳の枝へ、かえるが飛びつこうとしています。
かえるは柳のつゆを虫とでも思ったのでしょう、飛んでは落ち、飛んでは落ち、何べんも、何べんも、飛びつこうとします。
だんだん高く飛べるようになって、とうとう柳に飛びつきました。
道風はこれを見て、このかえるのように、根気がよければ
何事もできないことはないと悟りました。
それからは、一生懸命になって毎日、字をならいました。
ずんずん手が上がって、のちには名高い書手となりました。
尋常小学校 小学国語読本 巻3 昭和3年
小野道風(894年から966年)は、平安時代中期を代表する能書(書の上手な人)です。
小野道風の家系、小野氏は遣隋使で有名な小野妹子を祖先として、岑守・篁・美材等の学者や能書を輩出した名族でした。
幼いころから字が上手だった道風は、書をもって宮廷に仕え、数々の輝かしい業績を残しました。
愛知県春日井市ホームページより
お花は学校から帰ると、お使いに行ったり、庭を掃き掃除したりして、お母さんの
お手伝いをします。
赤ちゃんが泣き出すと、すぐ傍によって
「ねんねんころりよ、おころりよ。
ぼうやはよいこだ、ねんねしな」
と、かわいらしい声で子守唄を歌います。
それでも、まだ赤ちゃんが泣くときは
「おかあさん、赤ちゃんに、お乳をのませてちょうだい」
こういって、抱っこをして、おかあさんのところにつれていきます。
お花は今年、九つです。
尋常小学国語読本 巻3 昭和3年
「この箱の中に、面白い人がいます。当ててごらんなさい。」
「その箱をかしてください。」
「はい。」
「ふっても、ようございますか?」
「はい。」
「たいそう、かるうございますね。この人はどんな色の着物を着ていますか?」
「赤い着物を着ています。」
「それは女の子でしょう?」
「いいえ」
「それでは男の子ですか?」
「いいえ、年よりです。」
「どうも、こまりました。どんな顔をしていますか?」
「顔じゅう、ひげだらけです。」
「それでは手も足もないでしょう?」
「はい。」
「わかりました。だるまさんです。」
村はずれに水車があります。村の人は五一車と呼んでいます。
五一じいさんがその水車屋の番をしているからです。
五一じいさんは、おもしろいおじいさんです。
「からすの鳴かない日はあっても、五一じいさんが歌わない日はない」
といわれるほど、いつも機嫌よく歌を歌うじいさんです。
長い半纏を着て、みじかい股引をはいて、小糠だらけになって、はたらくじいさんです。
ざぶざぶ落ちる水の音、とんとんひびく杵の音、そのにぎやかな中から
「しごとなされよ、
きりきりしゃんと。
かけた、たすきの、切れるほど。」
五一じいさんの歌う声が聞こえます。
いつか、うちのお父さんが、道で、
「いつも、お達者なことで。」
とおっしゃったら、五一じいさんは
「もう、すっかり、弱りまして。」
と、いって、大きな手で頭をなでました。
五一じいさんは、今年、六十九歳だそうです。
尋常小学校巻3 昭和3年
夕飯が済んだあと、おじいさんが一郎に尋ねました。
「おまえは手の指の名前を知っていますか?」
「知っています。一番太いのが親指で、一番細いのが小指です。」
「それから?」
「それから、一番長いのが中指です。中指と親指の間にあるのが人差し指、中指と
小指の間にあるのが、薬指です。」
「そうです。では、足の指の名前を知っていますか?」
「同じことでしょう。」
「まあ、言ってごらん。」
「親指、人指し指。」
おじいさんは笑いながら
「二郎、お前はその指で人を指しますか?
足の指には親指と小指の他は名がないのです。」
と、教えてやりました。
子どもたちがたくさん集まっていました。
その中の一人が、紙を折って作ったかえるを出して
「これは生きている!」
と手をはなしました。
するとふしぎなことに、紙のかえるはそろそろと動きはじめました。
みな、ふしぎに思ってみていました。
やがて一人がかえるに息を吹きかけてみると、かえるはひっくりかえって、こがね虫があらわれました。
「ああ、これがタネだ」
と、みんなが手を打ってわらいました。
次の日、またべつの子がいいました。
「おもしろいものを作ったから、みんな見にきて」
みると、うつわにはった水の上を、木でつくった鳥があちこち泳いでいました。
「これはおもしろい。どうやったの?」
ときくと、昨日のかえるを見てから、いろいろ工夫して、木で鳥を作って、それを糸で魚のフナの尾にむすびつけたのだ、と言いました。
小学国語読本より
九州の久留米に、井上でんという女の人がいました。
子どもの頃から、ぬい物やはたおりなどの手芸が好きでした。
でんが12、3才のときのことです。
いろいろ工夫して、白いはた糸をところどころ糸でかたく結んでから、あい(藍)でそめて、干してみると、その結んだところが白いままになっていることに気づきました。
この糸で、布を織ってみると、白いまだらが現れました。
でんは、とてもよろこびました。
布のもようはとても珍しく、「しも降り」「あられ織」などと呼ばれ、たくさんの人が欲しがりました。
これが「久留米がすり」の始まりです。
でんは元気づいて、さらに工夫をかさね、多くの織物を作りました。
たくさんの弟子もついて、でんの織物は町の特産品になりました。
どんなことでも深く心をこめて考えれば、よい工夫が浮かぶものです。
むかし、頭のよい人がいました。
ある人が彼に向かって、「私の体を枡で測ったら、どのぐらいの大きさがあるだろう。方法があれば測ってみてください」といいました。
言われた人は「かんたんなことだ」といって、ふろに水を十分にためました。
これに先程の人を入れて、頭までしずませた後、外に出ました。
ふろの水ははじめ、その縁までいっぱいにみちていましたが、人が入ったので上からあふれて、その人の体の分だけへりました。
たのまれた人は、そのへった分をはかりながら、ふろにくみ入れて、元のとおりに水をみたしました。
終わったあと、はかった人は相手に言いました。
「今みたように、あふれたあとにくみ入れた水はニ斗一升五合だったので、つまりそれがあなたの体を枡ではかった大きさです」
相手ははかった人の頭のよさに感心しました。
高等小学国語読本5_明治34年
加藤景正は鎌倉時代の人です、藤四郎とも呼ばれました。
子供の頃から土で物を造ることが好きでした。
そして成長して陶器の焼き方を学びました。
その頃、中国は陶器づくりの技術が進んでいました。
加藤景正はこれを学ぼうと、道元和尚とともに中国に渡りました。
そして、6年間修行して、技術をきわめました。
27歳のとき日本に戻り、熊本の川尻に住みました。
そして持ち帰った土で3つの壺を焼いて、執権だった北条時頼と、道元和尚とに贈りました。
それから京都の山城に入り、近畿地方を広くめぐって、陶土を探しました。
しかし、心にかなうものがなかったので、失望しました。
それから尾張の国(愛知県)に入り、ようやく持ち帰った土と同じぐらい良い土を見つけました。景正はとても喜んで、すぐに窯を開きました。
その土地は東春日井郡の瀬戸村でした。世間で陶器を瀬戸物というのは、この瀬戸という土地の名前によるものなのです。
景正の子孫が代々、仕事を継いだので、明治時代になっても、瀬戸村には加藤という姓を持つ人がたくさんいました。
明治の終わり、瀬戸村には700戸あまりの世帯があり、みな同じ仕事をしていました。窯を持ち窯元をしている家は150あまりありました。
明治34年 高等小学校読本から
古橋輝兒(てるのり)は愛知県の人でした。
子供の頃、家が貧しくなってきたので、これを挽回しようと、日夜つとめました。
輝兒(てるのり)は大人になると、山林業を始めようと思いました。
そこで、貧しい中、自らお金を出して、杉、ひのきなどの苗を買いました。
そして、これらの苗を、すべての村人の間で分けあって栽培しようと思いました。
村の人々はいやがりました。苗を焼きはらおうとする人もいました。
しかし輝兒(てるのり)は誠意をもって、丁寧に栽培するよう勧めました。
そして数万本の大木が村の共有地に生い立つようになり、
輝兒(てるのり)の徳を仰がぬものはいなくなりました。
また輝兒(てるのり)は、県庁で働いていたときに得たお金で、
茶の実や桑の苗を買って村人に与えました。
貧しい者には栽培するための費用を与えました。
結果、数年後には、この地方で製茶や養蚕が盛んになりました。
輝兒(てるのり)は、農談会をして耕作をすすめ、学校を興して師弟を教え、
財を出して貧者に恵みを行うなど、善行がとても多い人でした。
常に倹約し、自分のために使うことは少なく、公益のためには少しも惜しむことなく、
何事も自ら先んじて人を導くので、感化させられない人はいませんでした。
輝兒(てるのり)は、父親が病気になったときは寝食を忘れて看護し、氏神に全快を祈りました。
父の病が癒えると、毎夕、氏神の社に燈火を献じて感謝しました。
高等小学国語読本(明治34年)より