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本居宣長を一分で読む!:明治時代の教科書

山桜が咲き誇っている中に、赤い細い葉がまばらに混じっている様は、くらべるものがないぐらい美しい。 葉が青くなってしまって花がまばらになってしまうと、だいぶ劣ってしまう。 山桜といわれるものも様々だ。細かく見れば、木ごとに変わったところがあって、全く同じ木はない。 また、八重、一重などといった種類も様がわりして、とても美しい。 曇った日に見上げて見る花は色鮮やかに見えない。 松などが青く繁ったかなたに咲く花は、色が殊のほか映えてみえる。 空がよく晴れた日、日影のさす方から見る花の美しさにならぶものはない。同じ花と思えないほどだ。 国語読本 巻3 明治34年

尋常小学校の教科書より:星空の笑い話3つ

雨の穴

子どもが空一面の星を見て、 「ああ、わかった。あの光るところが、雨の降る穴だ。」

星の数

ある晩、弟が庭に出て 「一つ、二つ」と数えていました。 兄が 「おまえ、何を数えているのだ?」 と、尋ねますと 「星を数えています。」 「こんな暗い晩に数えないで、昼に数えるがよい。」

星とり

「おい、長い竿を振り回して、何をしているのだ?」 「星を二つ三つ、はたき落とそうとしているのだ。」 「ばかなことを言う。そんなところで届くものか。屋根へ上がってはたけ。」

尋常小学校の教科書より:小野道風(おのの とうふう)

昔、小野道風(おのの とうふう)という人がいました。 若いときに字を習いましたがうまく書けず困っていました。 あるとき、雨の降る日に道風が庭に出て池の傍を通りますと、しだれ柳の枝へ、かえるが飛びつこうとしています。 かえるは柳のつゆを虫とでも思ったのでしょう、飛んでは落ち、飛んでは落ち、何べんも、何べんも、飛びつこうとします。 だんだん高く飛べるようになって、とうとう柳に飛びつきました。 道風はこれを見て、このかえるのように、根気がよければ 何事もできないことはないと悟りました。 それからは、一生懸命になって毎日、字をならいました。 ずんずん手が上がって、のちには名高い書手となりました。   尋常小学校 小学国語読本 巻3 昭和3年 小野道風(894年から966年)は、平安時代中期を代表する能書(書の上手な人)です。 小野道風の家系、小野氏は遣隋使で有名な小野妹子を祖先として、岑守・篁・美材等の学者や能書を輩出した名族でした。 幼いころから字が上手だった道風は、書をもって宮廷に仕え、数々の輝かしい業績を残しました。 愛知県春日井市ホームページより

尋常小学校の教科書より:「お花の子守唄」

お花は学校から帰ると、お使いに行ったり、庭を掃き掃除したりして、お母さんの お手伝いをします。 赤ちゃんが泣き出すと、すぐ傍によって 「ねんねんころりよ、おころりよ。 ぼうやはよいこだ、ねんねしな」 と、かわいらしい声で子守唄を歌います。 それでも、まだ赤ちゃんが泣くときは 「おかあさん、赤ちゃんに、お乳をのませてちょうだい」 こういって、抱っこをして、おかあさんのところにつれていきます。 お花は今年、九つです。   尋常小学国語読本 巻3 昭和3年

尋常小学校の教科書より:「箱の中は誰でしょう?」

「この箱の中に、面白い人がいます。当ててごらんなさい。」 「その箱をかしてください。」 「はい。」 「ふっても、ようございますか?」 「はい。」 「たいそう、かるうございますね。この人はどんな色の着物を着ていますか?」 「赤い着物を着ています。」 「それは女の子でしょう?」 「いいえ」 「それでは男の子ですか?」 「いいえ、年よりです。」 「どうも、こまりました。どんな顔をしていますか?」 「顔じゅう、ひげだらけです。」 「それでは手も足もないでしょう?」 「はい。」 「わかりました。だるまさんです。」  

尋常小学校の教科書より:「五一じいさん」

村はずれに水車があります。村の人は五一車と呼んでいます。 五一じいさんがその水車屋の番をしているからです。 五一じいさんは、おもしろいおじいさんです。 「からすの鳴かない日はあっても、五一じいさんが歌わない日はない」 といわれるほど、いつも機嫌よく歌を歌うじいさんです。 長い半纏を着て、みじかい股引をはいて、小糠だらけになって、はたらくじいさんです。 ざぶざぶ落ちる水の音、とんとんひびく杵の音、そのにぎやかな中から 「しごとなされよ、 きりきりしゃんと。 かけた、たすきの、切れるほど。」 五一じいさんの歌う声が聞こえます。 いつか、うちのお父さんが、道で、 「いつも、お達者なことで。」 とおっしゃったら、五一じいさんは 「もう、すっかり、弱りまして。」 と、いって、大きな手で頭をなでました。 五一じいさんは、今年、六十九歳だそうです。 尋常小学校巻3 昭和3年

尋常小学校の教科書より:「指の名前」

夕飯が済んだあと、おじいさんが一郎に尋ねました。 「おまえは手の指の名前を知っていますか?」 「知っています。一番太いのが親指で、一番細いのが小指です。」 「それから?」 「それから、一番長いのが中指です。中指と親指の間にあるのが人差し指、中指と 小指の間にあるのが、薬指です。」 「そうです。では、足の指の名前を知っていますか?」 「同じことでしょう。」 「まあ、言ってごらん。」 「親指、人指し指。」 おじいさんは笑いながら 「二郎、お前はその指で人を指しますか? 足の指には親指と小指の他は名がないのです。」 と、教えてやりました。

明治時代の教科書より:「紙で作ったかえるが動いた」

子どもたちがたくさん集まっていました。 その中の一人が、紙を折って作ったかえるを出して 「これは生きている!」 と手をはなしました。 するとふしぎなことに、紙のかえるはそろそろと動きはじめました。 みな、ふしぎに思ってみていました。 やがて一人がかえるに息を吹きかけてみると、かえるはひっくりかえって、こがね虫があらわれました。 「ああ、これがタネだ」 と、みんなが手を打ってわらいました。 次の日、またべつの子がいいました。 「おもしろいものを作ったから、みんな見にきて」 みると、うつわにはった水の上を、木でつくった鳥があちこち泳いでいました。 「これはおもしろい。どうやったの?」 ときくと、昨日のかえるを見てから、いろいろ工夫して、木で鳥を作って、それを糸で魚のフナの尾にむすびつけたのだ、と言いました。 小学国語読本より

1分で読む明治時代の教科書:井上でん はどんな人?

九州の久留米に、井上でんという女の人がいました。 子どもの頃から、ぬい物やはたおりなどの手芸が好きでした。 でんが12、3才のときのことです。 いろいろ工夫して、白いはた糸をところどころ糸でかたく結んでから、あい(藍)でそめて、干してみると、その結んだところが白いままになっていることに気づきました。 この糸で、布を織ってみると、白いまだらが現れました。 でんは、とてもよろこびました。 布のもようはとても珍しく、「しも降り」「あられ織」などと呼ばれ、たくさんの人が欲しがりました。 これが「久留米がすり」の始まりです。 でんは元気づいて、さらに工夫をかさね、多くの織物を作りました。 たくさんの弟子もついて、でんの織物は町の特産品になりました。 どんなことでも深く心をこめて考えれば、よい工夫が浮かぶものです。  

おふろで大きさをはかる人

むかし、頭のよい人がいました。 ある人が彼に向かって、「私の体を枡で測ったら、どのぐらいの大きさがあるだろう。方法があれば測ってみてください」といいました。 言われた人は「かんたんなことだ」といって、ふろに水を十分にためました。 これに先程の人を入れて、頭までしずませた後、外に出ました。 ふろの水ははじめ、その縁までいっぱいにみちていましたが、人が入ったので上からあふれて、その人の体の分だけへりました。 たのまれた人は、そのへった分をはかりながら、ふろにくみ入れて、元のとおりに水をみたしました。 終わったあと、はかった人は相手に言いました。 「今みたように、あふれたあとにくみ入れた水はニ斗一升五合だったので、つまりそれがあなたの体を枡ではかった大きさです」 相手ははかった人の頭のよさに感心しました。 高等小学国語読本5_明治34年

加藤景正(かとう かげまさ)

加藤景正は鎌倉時代の人です、藤四郎とも呼ばれました。 子供の頃から土で物を造ることが好きでした。 そして成長して陶器の焼き方を学びました。 その頃、中国は陶器づくりの技術が進んでいました。 加藤景正はこれを学ぼうと、道元和尚とともに中国に渡りました。 そして、6年間修行して、技術をきわめました。 27歳のとき日本に戻り、熊本の川尻に住みました。 そして持ち帰った土で3つの壺を焼いて、執権だった北条時頼と、道元和尚とに贈りました。 それから京都の山城に入り、近畿地方を広くめぐって、陶土を探しました。 しかし、心にかなうものがなかったので、失望しました。 それから尾張の国(愛知県)に入り、ようやく持ち帰った土と同じぐらい良い土を見つけました。景正はとても喜んで、すぐに窯を開きました。 その土地は東春日井郡の瀬戸村でした。世間で陶器を瀬戸物というのは、この瀬戸という土地の名前によるものなのです。 景正の子孫が代々、仕事を継いだので、明治時代になっても、瀬戸村には加藤という姓を持つ人がたくさんいました。 明治の終わり、瀬戸村には700戸あまりの世帯があり、みな同じ仕事をしていました。窯を持ち窯元をしている家は150あまりありました。 明治34年 高等小学校読本から

古橋輝兒(ふるはし てるのり)

古橋輝兒(てるのり)は愛知県の人でした。 子供の頃、家が貧しくなってきたので、これを挽回しようと、日夜つとめました。 輝兒(てるのり)は大人になると、山林業を始めようと思いました。 そこで、貧しい中、自らお金を出して、杉、ひのきなどの苗を買いました。 そして、これらの苗を、すべての村人の間で分けあって栽培しようと思いました。 村の人々はいやがりました。苗を焼きはらおうとする人もいました。 しかし輝兒(てるのり)は誠意をもって、丁寧に栽培するよう勧めました。 そして数万本の大木が村の共有地に生い立つようになり、 輝兒(てるのり)の徳を仰がぬものはいなくなりました。 また輝兒(てるのり)は、県庁で働いていたときに得たお金で、 茶の実や桑の苗を買って村人に与えました。 貧しい者には栽培するための費用を与えました。 結果、数年後には、この地方で製茶や養蚕が盛んになりました。 輝兒(てるのり)は、農談会をして耕作をすすめ、学校を興して師弟を教え、 財を出して貧者に恵みを行うなど、善行がとても多い人でした。 常に倹約し、自分のために使うことは少なく、公益のためには少しも惜しむことなく、 何事も自ら先んじて人を導くので、感化させられない人はいませんでした。 輝兒(てるのり)は、父親が病気になったときは寝食を忘れて看護し、氏神に全快を祈りました。 父の病が癒えると、毎夕、氏神の社に燈火を献じて感謝しました。 高等小学国語読本(明治34年)より